共立パンフレット Kyoritsu Brochure 09

 

Embed or link this publication

Description

第2回賀川豊彦シンポジウム「助け合いの心が日本社会を変える!—市民社会と賀川豊彦の友愛精神」

Popular Pages


p. 1

Kyoritsu Brochure 009number Tokyo Christian University | Kyoritsu Christian Institute !

[close]

p. 2

009number Tokyo Christian University | Kyoritsu Christian Institute 01 03 06 1 JA 3 24 2 + 2016 10 29 John Templeton Foundation (http://www.templeton.org/) Science for Ministry in Japan: The Theory and Practice of Christian Ministry in the Face of Natural Disasters 2014 4 2016 12 http://www.tci.ac.jp/smj/ 2 John Templeton Foundation This project was made possible through the support of a grant from the John Templeton Foundation. The opinions expressed in this project are those of the members and do not necessarily reflect the views of the John Templeton Foundation. PDF http://www.tci.ac.jp/smj/?p=126

[close]

p. 3

賀川豊彦の足跡 (映像音声) 雲柱社の設立者、賀川豊彦とはどのような人物なのか。またどんな活動に取 り組んできたのかを辿っていきます。 小説『死線を越えて』をご存知でしょうか。この小説を書いたのが賀川豊彦 です。賀川は 7 歳のときに赤痢に感染し、それから何度も命に関わるよう な病気に苦しめられました。そして 19 歳のとき結核に倒れ生死の境をさま よいます。この体験をもとに書かれた小説『死線を越えて』は 100 万部を 超えるベストセラーとなりました。死の淵から甦った賀川は、いつ途絶え るかわからない自分の命を社会で苦しんでいる人たちに捧げようと考えまし た。生涯を通してさまざまな社会活動に取り組み、晩年にはノーベル平和賞 の候補にまで挙げられました。 1909 年 12 月 24 日、21 歳の賀川は病気の体を抱えて神戸のスラムに身を 投じました。賀川はそこに住み、病の人、貧しい人、子どもたちの面倒をみ ました。しかし、住民からは暴力を振るわれたり、お金を巻き上げられたり する毎日でした。賀川は自分のわずかな服やお金を彼らに分け与えました。 スラムでの活動を通して、賀川は将来の伴侶となる芝ハルと出会います。ハ ルは賀川の活動を献身的に手伝い、よき協力者となりました。 やがて賀川はボランティア組織「救霊團」を結成します。無料宿泊所や託児 所をつくり、病人の介護を行ないました。また日曜学校や、食事を安く提供 する食堂「天国屋」などをつくったり、さまざまな活動に取り組んでいきま した。 ここで彼は豊かな可能性をもった子どもたちが貧困の被害を最も多く受けて いる現実に心を痛めました。賀川は子どもの教育に力を入れ、勉強を教えた り、一緒に遊んだり、子どもたちが自然に触れることができる林間学校など を行ないました。 賀川はスラムでの体験を通して、人間が貧困から解放されるためには、魂の 救済と、社会構造の変革が最も必要だと考えました。そして彼はキリスト教 の伝道と並んで、協同組合運動、労働組合運動の他、農民組合や漁業組合運 動、社会福祉事業や社会保険制度の実現に取り組みました。 1923 年 9 月、関東大震災が発生し、東京を中心に甚大な被害を及ぼしました。 これを知った賀川は直ちに救援物資を集め、神戸より船で上京しました。そ して被害が最もひどかった墨田区本所で被災者救援活動を始めました。これ を契機に賀川は活動の拠点を東京に移しました。神戸での活動は神戸イエス シンポジウムの冒頭、 賀川豊彦の足跡を紹介 する DVD が上映され ました。 (DVD 制作=賀川豊彦記 念松沢資料館+雲柱社) 賀川豊彦 (写真提供=賀川豊彦 記念松沢資料館。以下 *印同) 1913(大正 2)年 5 月、 賀川豊彦は芝ハルと結 婚* 1 Kyoritsu Brochure 009

[close]

p. 4

団によって引き続き担われ発展していきました。 スラムでの経験を活かした墨田区本所での被災者救援活動は、その後、消費 組合、日曜学校、教会、保育所などへと発展していきました。これらの事業 はアジア太平洋戦争で施設が焼失するまでのあいだ、地域の人たちの生活を 支え続けました。この事業の展開と方向性こそが、雲柱社の事業理念の原点 となったのです。 その後、1931 年、賀川は 43 歳のときに東京世田谷区松沢村で松沢教会と 松沢幼稚園を設立します。1938 年 4 月、50 歳のときに賀川は財団法人雲 柱社を設立して初代理事長になります。雲柱社は、キリストの贖罪愛を基本 として、貧困、失業、傷病の防止、救護などの社会事業や、幼稚園、保育園 の教育事業を行なっていきます。賀川は妻のハルと共に松沢村で生活をしな がら、これらの活動を続けました。 1941 年、日米関係は険悪化しつつありました。賀川は平和使節団の一員と してアメリカに渡り、戦争の回避に奔走します。しかし力及ばす、同年、太 平洋戦争が始まります。平和への願いに衝き動かされた賀川の言動や著作は 当時の官憲の目に触れ、賀川は二度の拘留を体験することとなりました。 終戦後、賀川は戦争で打ちひしがれた人々の心を救うため、活発なキリスト 教伝道活動を始めました。そして二度と戦争の悲劇を繰り返さないために、 国際的な平和運動に力を尽くしました。 1960 年、賀川は 71 歳でその人生の幕を閉じます。賀川の死後、終生、賀 川を支えてきたハルが雲柱社の理事長となって法人の事業の発展に尽くしま す。ハルは 94 歳で亡くなりました。 賀川豊彦はその生涯を通して、人々が幸せに生きられる社会の実現のために 活動し続け、また未来の社会を支える子どもたちの教育や福祉の充実に力を 注いだのです。子どもたちの権利を守り、教育を促進することに努めてきた 活動は世界でも認められ、1999 年 12 月、国連が採択した子どもの権利条 約のもと、子どもの最善の利益を守るリーダーとして、世界の 52 人の 1 人 に選ばれました。 晩年のハル。 自宅にて* 2 賀川豊彦の足跡 開会挨拶をする永野茂 洋 明治学院大学副学 長・同大学教養教育セ ンター教授

[close]

p. 5

開催主旨「  労働者は人格である」 稲垣久和 おはようございます。本シンポジウムのコーディネーターを務めます稲垣久 和と申します。どうぞよろしくお願いいたします。 今日は「震災後の日本における宗教的ミニストリーの理論と実践」の第 2 回目のシンポジウムになります。これから 4 名のパネラーの方たちと議論 を進めますけれども、最初に私から開催主旨をちょっと述べさせていただき ます。 協同組合間の連携 レジュメのタイトルに「労働者は人格である」と記しました。これは賀川豊 彦が 1919(大正 8)年に労働運動をしているときに出したエッセイからの 引用です。資本主義がもたらす格差と貧困が今以上に深刻であった時代に、 賀川は相互扶助の伝統を社会的・組織的に促進する協同組合運動を精力的に 展開しました。それから 100 年たった今日、再び貧困や格差が大きな社会 問題になっています。賀川の説く「友愛と連帯」によって、これらの諸問題 に対処しつつ、格差の是正と新たな市民社会の建設に励みたい。そういうこ とから、私は今日のシンポジウムの通奏低音として「労働者は人格である」 という言葉を響かせたいと思ったのです。 先にご覧いただいた映像にもありましたように、賀川はさまざまな協同組合 を次々と立ち上げていきました。そして労働組合、生活協同組合、農業協同 組合は戦後、それぞれ大きなグループとして成長しつつ、さまざまな活動を 通じて大きな成果を上げていることを私たちは理解しております。 今日のシンポジウムは、2 つの大きなメインテーマがあります。ひとつは賀 川豊彦の再評価です。もうひとつは、賀川が立ち上げに関わったこの 3 つ の大きなグループのあいだの橋渡しをどのような形でできるかということ を、お互いの対話の中で探っていきたいということです。協同組合間の協同 ですね。 じつはご存知のように、すでに IYC(国際協同組合年)を境に、全国的なレ ベルで 3 つのグループのあいだの連携は進んでおりますけれども、私はそ れをさらに強化していくことが現代社会には絶対に必要だと考えておりま す。 それはなぜか。戦後 70 年経って民主主義が浸透してきましたけれども、現 在の立ち位置を考えますと、「市民社会」が十分に成熟しているとは言えな いと思います。その理由は何かと考えてみるに、せっかくこれだけ大きな相 稲垣久和 東京基督教 大学大学院教授(コー ディネーター) 3 Kyoritsu Brochure 009

[close]

p. 6

互扶助の組織ができあがりながら、各組織の内側だけで絆が強くなっている ところに問題があると思うのです。ですから、お互いにさらに橋渡しをして 連帯することをもう少し心がける必要があると。現代的に表現すると「ソー シャルキャピタル(社会関係資本)」の形成のために、相互組織の中のさま ざまなレベルでの連帯が重要であると思っています。 ソーシャルキャピタルとは、「人々の協調行動を活発にすることによって、 社会の連帯性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の 特徴」(R・パットナム『哲学する民主主義』)で、社会学や政治学、経済学 などで用いられてきた概念です。 ソーシャルキャピタルには 2 つの連携の型があります。ひとつはボンディ ング(ボンド型)で、糊付けして自分たちの組合のメンバー内での絆を強く する。もうひとつはブリッジング(ブリッジ型)で、外側のグループとの連 携を強くするものです。この 2 つの型の双方がうまく相乗効果をもたらし たときに、大きく強固な市民レベルの連帯ができるかなと考え、我々とし てはこのブリッジングのレベルをもっと強くする必要性を感じているんです ね。 ですから今日、ご登壇いただくお三方には、まずそれぞれのお働きをご紹介 いただき、さらにその働きの中でいくつかブリッジングが出ていると思いま すので、それを私たちも学んでいきたいと思っております。 抽象的・学術的にはいろいろ言えますけれども、今日は具体的に進めること が大事だと思いまして、ひとつは災害復興支援に焦点を当てました。日本は 火山列島で地震・火山の活動期に入ったと私たちは認識すべきだと思います。 地震・津波に加え、最近は台風や異常気象等々と自然災害が絶えません。そ ういうときの緊急支援は、私たちの地域生活における連携のひとつの大きな 証しです。ですから、まずは緊急時における地域ネットワークということで、 3 つのグループがどのような活動をされているかを学びたいと思います。 さらに、東日本大震災から 5 年も経ち、熊本震災からも数ヵ月が経って、 その後、鳥取でも大きな地震が起こりました。そういう緊急時の支援と同時 に、平時の日常生活の中における支援、とくに貧困をなくすための支援、弱 者支援と言ったらよいでしょうか、そういうところでのネットワークについ ても今日はテーマにしたいと考えております。平時のネットワークを強固に していくことによって、これから 5 年先、10 年先、20 年先の私たちの市 民社会の形成と成熟が可能になってくると思うのです。いわば持続可能なま ちづくり、そこに労組や農協、生協がどのようにして相互連携できるかを探 っていきたいと思っております。 人はなぜ働くのか 私たちが生きていくために働くこと、労働はとても大きなテーマです。現代 のように市場経済が発達し、資本主義が爛熟してくる時代に、働く意味を 考える必要があると思います。「人はなぜ働くのか?」というのは、即座に 答えられないような大きなテーマですけれども、賀川の協同組合の活動以降 4 開催主旨「労働者は人格である」

[close]

p. 7

100 年が経ち、現代は賀川の時代以上に格差問題がクローズアップされて います。そのさまざまな原因の分析はともかくとして、我々は日々、労働者 として働いている。「労働力は商品」だとよく言われますが、我々はもちろ んそのようには思っていません。じゃあ労働力とは何なのですか? という 問いが出されなければいけないと思います。 つい最近も過労死の問題がマスコミで大きく取り上げられました。どうして 日本人はこんなに長時間労働に耐えて、そして病気になってしまうほど働く ところまで追いつめられてしまうんだろう。これは社会の仕組みがちょっと おかしいんじゃないかと思わない人はいないでしょう。ですから私たちは社 会の仕組みを変えていく必要があると思います。 社会の仕組みを変えていくためには、ビジョンが必要です。ビジョンと同時 に意欲、変える意志がなければ変わらないと思います。そういう意味で、心 の内面から意欲を出していく、そういうパワーについて、私たちは賀川豊彦 に学んでいく必要があると考えます。 賀川は労働についていろいろ書いていますが、「労働者は人格である」とい う言葉は、じつはジョン・ラスキンというイギリスの哲学者、芸術評論家の 影響を受けたものです。ラスキンは、経済学者、功利主義の哲学者として知 られるジョン・スチュアート・ミルと同時代の人で、労働とは芸術作品のよ うなものだと言って、ミルを批判しています。たとえば「生以外に富は存在 しない(There is no wealth but life)」と、生、人間の命こそ富の源泉だと 言っているんですね。賀川はこのラスキンに大きな影響を受けて、労働は人 間の命の原点、スタートにとても大事なものだと言っているわけです。 こういうことを念頭に置きながら、それぞれのグループの方々から具体的な 発題をいただけるということで、私はとても楽しみにしております。よろし くお願いいたします。 5 Kyoritsu Brochure 009

[close]

p. 8

パネルディスカッション 1 連合・JA・生協——3団体の活動と賀川豊彦 逢見直人 × 比嘉政浩 × 新井ちとせ × 篠田徹 × 稲垣久和(進行役) ① 団体紹介 賀川豊彦との関わり 稲垣——それではお三方に、1 人 20 分ずつ発題していただきます。前半の 10 分はそれぞれの団体のご紹介、とくに賀川豊彦との関係について。後半の 10 分は、そこから発展して今はどういうことを問題にしているのかをお話 しいただきたいと思います。では、まず逢見直人さん、よろしくお願いいた します。 労働組合の歴史と賀川豊彦 逢見——皆さん、こんにちは。連合(日本労働組合総連合会)の事務局長をし ております逢見と申します。最初に賀川豊彦との関係を含めながら、私ども の紹介をしたいと思います。 日本労働組合総連合会というのは、文字通り労働組合の全国組織でございま す。組合員は 686 万人おりまして、働く仲間が集結して自分たちの労働条 件の維持、向上、雇用の安定、そして働く人たちの政策の実現に向けて活動 している団体でございます。 日本の労働組合の歴史は、1912(大正元)年に鈴木文治がつくった「友愛 会」が源流になります。じつはその前に「労働組合期成会」という高野房太 郎たちが中心になってアメリカの考え方を日本に取り入れようとした動きが あったのですが、これは官憲の弾圧などもあって途切れてしまいます。そし て、ちょうど明治の時代が終わって大正という時代に入る、まさにそのとき に、鈴木文治が友愛会を設立し、その流れは今日まで脈々と続いております。 賀川豊彦は、鈴木文治が始めた友愛会の運動に賛同して、神戸の地からこの 会の指導者として立ち上がります。1919 年のことで、友愛会関西労働同盟 会結成の主導的な役割を果たしていくわけです。 友愛会は労働組合ではあるのですが、先述のように労働組合期成会という名 で運動したところ、早速官憲の弾圧を受けたという経緯もあり、労働組合 と名乗っておりません。イギリスに「フレンドリー・ソサエティ(Friendly Society)」という共済組合の源流のような組織があり、それを和訳した友愛 会という名で活動を始めたわけです。しかしその活動内容は労働組合であり、 関西の創立宣言には明確に「団結権」「団体交渉権」「争議権」という、今日、 労働三権と言われているものが賀川の手によって書かれています。 友愛会関西労働同盟会は、1921(大正 10)年に三菱内燃機会社で神戸発動 6 パネルディスカッション 1 逢見直人 日本労働組 合総連合会(連合)事 務局長

[close]

p. 9

機工組合を結成し、「横断組合の承認」「団体交渉権の確立」などを要求する 嘆願書を出しました。しかし嘆願書は突き返され、会社はこれに解雇で応え たため、労働争議に発展しました。争議は、すぐ隣の川崎造船所にも波及し たので、これを「三菱・川崎争議」と言います。 そのときの写真が、今日のシンポジウムのチラシに掲載されております(fig.1)。 写真の下に、「前代未聞の関西に於ける大団結労働争議、驚天動地の大示威 運動の実況」という新聞記事に載ったときの説明文が書いてあり、括弧書き で「久留総指揮官、賀川参謀その他幹部連」とあります。写真の先頭の右端 にいるのが賀川豊彦で、参謀という形でこの争議を指揮しました。 この三菱・川崎争議では、神戸市中を整然とデモ行進したのですが、警察は 賀川を含む 300 人を検束し、結局、労働者側の惨敗で終わります。賀川は「無 抵抗の抵抗」という理念をずっと持っており、秩序だったデモを指揮してい ましたが、経営側はそういうデモに対してもゼロ回答で終わってしまったの です。 その後、友愛会は、こうした賀川のような穏健な運動ではダメだ、もっと急 進的な運動をすべきだという左派の人たちの声が強くなって左傾化してい き、賀川はそこから一歩引く形になります。友愛会は「労働総同盟」という 名前に変わりますが、その中でも常に左派と右派のイデオロギー対立のよう なことが続きます。この傾向は日本の労働運動にその後もずっと引き継がれ ることになります。 賀川は、そういう経緯で友愛会の運動から一歩引くのですが、労働組合の活 動の支援はずっと続けます。とくに労働学校ですね。労働者教育が非常に大 事だということで、大阪の労働学校を支えていくんです。それを支える財源 は、小説『死線を越えて』で得た印税です。この本は私も読んでみましたけ れども結構難しい小説で、なかなかすらすら読めません。それがミリオンセ ラーになるなんてすごいなと思います。人々は『死線を越えて』を買うこと によって賀川の運動を支え、印税が労働学校を維持する資金となって、そこ から多くの労働組合リーダーが育っていきます。そういう意味で賀川の運動 は、今日まで脈々と私たちの労働組合運動に受け継がれていると言っていい と思います。 もうひとつ、助け合いの精神ということで言いますと、戦後の混乱の中で労 働団体と生活協同組合が協力して、生活物資を調達するための「労務者用物 資対策中央連絡協議会」が創設されました。これが「労働者福祉中央協議会(中 央労福協)」の結成に繋がっていきます。中央労福協は現在も活動しており、 その会長は連合の神津里季生会長が務めております。そういう意味で、中央 労福協の活動にも賀川イズムが今日まで繋がっていると言えます。 1 回目のプレゼンはこのくらいにしたいと思います。ご清聴ありがとうござ いました。 稲垣——次に比嘉政浩さん、よろしくお願いいたします。 fig.1 三菱・川崎争議のデモ行進。 右端が賀川* Kyoritsu Brochure 009 7

[close]

p. 10

農業協同組合と 日本農民運動の父 賀川豊彦 比嘉——こんにちは。ご紹介いただきました比嘉でございます。私の所属して いる団体は JA 全中というところです。JA とは農業協同組合(農協)のこと です。農業協同組合全体の全国中央会ということで「全中」というえらく思 い切った略称になっております。 JA の組合員数は、2013 事業年度末現在で、正組合員が 456 万人です。こ れは農家の方、農業者の方で、准組合員 558 万人は、農業者以外で地域に 住んでおられて JA に加入している方ということになります。 農業協同組合は、戦前の産業組合を最も色濃く引き継いでいます。戦前、日 本の協同組合は産業組合で、このときは農家だから入れるとか、そういう区 分は一切なく、どなたでも組合員になれました。戦後は地主制を廃した農地 解放の理念もあって、農業に関係することは農業者の意思で決めていくのだ という方針のもと、農業協同組合も農業者だけの意思決定でやっていくこと になったのです。しかし、戦前に産業組合を利用していた方が、それでは困 るということで、准組合員という形でご加入いただくことになり、この制度 が戦後ずっと続いているというわけです。 先進国はどこでも農業者の数が減っており、今では正組合員の数が准組合員 よりも少なくなっております。こういう状況の中で、JA グループとしてど のような答えを見出していくかということは、ひとつの大きな課題になって います。 とりわけ日本の農業は、協同なくしてはもう成り立ちません。皆様は都市に お住まいの方が多いと思いますのでわかり難いでしょうが、たとえば春の農 繁期が始まる前に、枯れ葉がいっぱい溜まった水路を集落総出で掃除して水 が流れるようにするのは、農村部に住んでおられる方にとっては当たり前 のことです。私の上司である全中の会長は JA 伊勢の会長でもありますが、 NHK の取材があるという日が、集落の水路掃除の日と重なり、日程調整に 苦慮したことがあります。畔も、全部刈っていないとそこだけ虫が出ますか ら、皆で畔の管理をしなければなりません。また、今でこそ機械化が進んで いますが、稲刈りも集落総出で今日は何々さんの田んぼ、次は誰々さんの田 んぼというふうに回っていかないとできませんでした。そもそも農村という のは、協同なくしてはありえないということです。 JA は、いろんなことができると法律で規定されています。たとえば農産物 の販売事業。農家の方がつくったキャベツはそのままでは出荷できません。 大きなものは加工向きで、スーパーマーケットでホールで売る場合は今はち ょっと小さめでないとなかなか売れません。核家族ですし、重たいのを嫌が られますから。ですからキャベツが出荷されてきたら選果をし、輸送に耐 えられるように予冷庫で冷やす。そういう選果場や予冷庫を持っているのが JA です。農家の方が遠隔地でつくられたキャベツを、消費地である東京に 1 人 1 人がバラバラに届けていたら、いくら運賃がかかるかわかりません。 したがって、農家からの出荷物をまとめ、需要に合わせて加工用や生食用な どに分けて協同で出荷するのが、JA の現場での仕事ということになります。 8 パネルディスカッション 1 比嘉政浩 全国農業協 同 組 合 中 央 会(JA 全 中)専務理事

[close]

p. 11

日本の農業の生産額は年間 8 兆円くらいですが、JA はそのうち約 4 兆円を 出荷しています。 他に農機や農薬、肥料などの購買事業も行なっています。日本の農機メーカ ーは 4 社しかなく寡占状態ですし、農薬メーカーは外資も含めて大企業ば かりです。最近は農家も大きくなったとはいえ、どうしても企業のほうが大 きい。そこで、需要を積み上げて企業と価格交渉をするのが JA の仕事にな っています。 JA ではさらに金融を扱う信用事業、共済事業などを行なっています。全国 の市町村に 600 余りある JA は大概のことは何でもやれることになっている のですが、その連合会では、信用事業、共済事業は、それぞれ他の事業と兼 営することができないという法律になっています。たとえば、貯金や貸出な どの信用事業を行なう連合会である農林中金は金融しか扱えません。そのた め、経済事業は JA 全農、共済事業は JA 共済連、信用事業は農林中金とい うように、事業ごとに連合会がつくられることになります。そうなると、取 りまとめ役が必要だろうということで、JA の代表・調整・指導事業を行な うのが、私が所属している全国中央会(JA 全中)ということになります(fig.2、 3)。 賀川豊彦先生は「日本農民運動の父」と言われておりますが、協同組合とい うことでは「JA 共済の父」とも言われております。賀川先生は戦前に出さ れた論文『保険制度の協同化を主張す』で、「保険そのものは本来互助的で あり、あらゆる保険を協同組合化すべきである」と主張し、協同組合による 共済事業の実現を訴え続けました。しかし戦前は実現されませんでした。 代表 調整 指導事業 経済 事業 全国段階 都道府県段階 市町村段階 組合員 正組合員 456 万人 准組合員 558 万人 2013 事業年度末 現在 日 家 の 光 協 会 農 協 観 光 厚生 事業 その他 事業 本 農 聞新業 共済 事業 信用 事業 fig.2 JA グループの事業と組織 Kyoritsu Brochure 009 JA 全 9

[close]

p. 12

県 連 ・ 県 本 部 意思反映 調整・指導 JA 意 思 反 映 現 場 指 導 会員以外の組合 ● 中央会は会員以外の 組合も経営相談 ● 加入は自由 JA 都道府県中央会 【現場指導、県域を代表・調整】 連携・調整 都道府県行政 監意 全 国 査 機 構 思 反 映 後総 方合 支調 援整 連 意思反映 JA 全中 連携・調整 農林水産省等 調整・指導 【県中の後方支援、企画・開発、全国域を代表・調整】 fig.3 JA 全中の役割 戦後、1947(昭和 22)年に現在の「農業協同組合法」が制定され、多少の 紆余曲折はあったものの、共済事業をやってもよいということになりました。 そこで賀川先生が奔走されて、現在の JA 共済の基礎ができあがりました。 1951 年の JA 共済連(全国共済農業協同組合連合会)設立時には、賀川先 生が顧問をお務めになったと聞いております。 また戦前、産業組合が経営参加した初めての保険会社である「共栄火災」が 1942 年に設立されました。「共存同栄」という言葉から命名されたこの会 社の設立に賀川先生は寄与され、現在も JA 共済連や日本生協連等を株主と する、協同組合・協同組織を基盤とする保険会社として存続しています。 また、JA グループの一員で出版文化事業を行なっている家の光協会は『家 の光』という月刊誌を発行しています。1925(大正 14)年に産業組合中央 会によって、肩の凝らない読み物を通して自ずと「協同の心」を育む家庭雑 誌として創刊された『家の光』は、今でも月刊で何十万部も刊行されています。 賀川先生は、この雑誌の 1934(昭和 9)年 1 月号から 1935 年 12 月号ま で 2 年間にわたって、連載「乳と蜜の流るゝ郷」を執筆されました。小説 形式のこの連載は、主人公が協同組合精神で農村を立て直していくというス トーリーで、読者から熱烈な支持を受け、その間『家の光』は発行部数を大 きく伸ばしたと聞いております。また家の光協会は、日本の協同組合の発展 に向けて、『死線を越えて』の劇画版などの発行を通して賀川先生のお考え の普及に努めています。 以上、私どもの組織と、賀川先生との関係について紹介させていただきまし た。ありがとうございました。 稲垣——それでは新井ちとせさん、お願いします。 10 パネルディスカッション 1

[close]

p. 13

生協に受け継がれる賀川豊彦の思想 新井——皆さん、こんにちは。日本生活協同組合連合会(生協連)副会長、コ ープみらい理事長を務めさせていただいている新井ちとせと申します。本日 は女性一人ということでとても緊張していますが、どうぞよろしくお願いい たします。 日本生協連は全国 326 の生活協同組合の連合会です。組合員の総数は 2800 万人を超え、事業高総計は 3.4 兆円です。主な役割は、商品事業ではプライ ベートブランドである「コープ商品」の開発と会員生協への供給、通販事業、 また会員生協の事業・活動の支援や、全国的な事業方針・政策の策定を行な っております。 設立は 1951(昭和 26)年で、初代会長を賀川豊彦が務めました。賀川は 第一次世界大戦後の不況の時代に、労働者の生活安定を目指し、お互いに協 同して生活を守り合う「消費組合」の創設を考え、1920(大正 9)年、現 在のコープこうべの前身である神戸購買組合と灘購買組合の設立に関わりま した(fig.4)。その他にも大学生協、共済組合、医療生協など、さまざまな 協同組合の設立に重要な役割を果たしました。 皆さんもお感じになっているかと思いますが、今年は本当に自然災害の多い 年となってしまいました。4 月には平成 28 年熊本地震、8 月、9 月には台 風や大雨に伴い北海道や岩手で発生した水害、そして 10 月 21 日には鳥取 でも地震がありました。生協が行なった具体的な取り組みについては後ほど 触れたいと思います。 1923(大正 12)年 9 月 1 日、関東大震災が発生した直後に、神戸で活動 していた賀川はいち早く現地入りし、被災者の支援に尽力しました。その後、 東京に転居し、被災者の自立支援のために、消費組合、信用組合、医療組合 などを設立していきました。 1995(平成 7)年 1 月 17 日、神戸を襲った阪神淡路大震災では、先ほど 触れた賀川が設立に関わったコープこうべでは本部ビルが倒壊するなど、事 業のインフラや、組合員、そして職員に大きな被害が出ました。私たちは賀 川の思いと同じく、発災後すぐに全国各地よりそれぞれの生協が支援に入り ました。そして、コープこうべをはじめとする生協の支援にとどまらず、自 治体の救援物資の手配や炊き出し、さらには、この当時、生協の配達職員さ んから「トラックでご遺体の搬送のお手伝いをしてきました」とお聞きした ことを今でも憶えていますが、ご遺体の搬送やお棺の組み立てなど、さまざ まな支援活動を積極的に取り組んだ結果、新聞で「被災地に生協あり」と報 道されるなど、生協の存在がクローズアップされました。 その後、コープこうべと全国の生協は、全労済(全国労働者共済生活協同 組合連合会)、連合、兵庫県と共に 2500 万筆という署名を集め、1998 年、 自然災害により倒壊した住宅の再建への公的支援を規定した「被災者生活再 建支援法」を成立させました。 2011(平成 23)年 3 月 11 日に発生した東日本大震災では、阪神淡路大震 災の経験を活かし、支援物資や人員の配置をいったん日本生協連で調整をし 新井ちとせ 日本生活 協同組合連合会(生協 連)副会長、コープみ らい理事長 fig.4 1920 年代前半の神戸購買組合* Kyoritsu Brochure 009 11

[close]

p. 14

ながら、被災地に対し、より効果的な支援を実施することができました。地 震・津波だけでなく原発事故も発生した福島では、コープふくしまが「組合 員のために」という言葉ではなく、「被災者の目となり、耳となり、口となり」 という賀川が関東大震災のときに記した言葉を掲げて、支援活動を今でも続 けております。 この後、格差・貧困問題、被災地支援の取り組みの中で、熊本地震における 生協の災害支援についてはお話しさせていただきたいと思いますが、生協の 災害支援、防災・減災の取り組みをまとめましたので、こちらをお読みいた だけたらと思います(傍注参照)。 最後に、コープみらいの理事長もさせていただいておりますので、コープみ らいと賀川とのエピソードを少しだけご紹介したいと思います。コープみら いは 2013 年 3 月 21 日、ちばコープ、さいたまコープ、コープとうきょう が合併し、現在、約 327 万人の組合員を擁する生協です。本部は埼玉県さ いたま市にあります。今年度の新入職員は約 160 人、毎年新人研修では初 めに賀川豊彦を学習し、賀川豊彦記念松沢資料館にも足を運び学ばせていた だいております。コープみらいの職員として、賀川の思想を日々の仕事に活 かすべく、研修を大切にしております。 また、10 月 2 日に「コープみらいフェスタ in スーパーアリーナ」をさい たまスーパーアリーナで開催し、約 4 万 5000 人の来場者で賑わいました。 このフェスタは、医療生協さいたま、埼玉県物産観光協会、埼玉県国際交流 協会のイベントとの同時開催です。当日、埼玉県知事やさいたま市長にもご 来場いただきました。毎年、小さなブースですが、職員さんの思いの詰まっ た賀川豊彦ブースがあります。今年の展示テーマは「賀川豊彦と埼玉県」で、 上田清司埼玉県知事にブースに立ち寄っていただくようご案内差し上げたと ころ、「埼玉県発祥のリズム時計(リズム時計工業株式会社)と賀川豊彦が 繋がっていたなんて大変驚きです。勉強します」とおっしゃいましたので、 早速、県の広報課に資料をお送りさせていただきました。 また本日は「コープみらいの未来 社会的責任報告 2016」(傍注参照)とい う資料を配付させていただきましたので、後でお読みいただければ幸いです。 これで団体の紹介とさせていただきます。ありがとうございました。 稲垣——ありがとうございます。第 1 ラウンドの 3 団体のご紹介に続き、 早速第 2 ラウンドに移ります。逢見様、よろしくお願いいたします。 ②社会的課題への取り組みと震災支援 連合—— 働くことを軸とする安心社会 の実現を掲げて 逢見——第 2 ラウンドでは、「社会的課題への取り組みと震災支援」というテ ーマで現在、連合としてどのようなことをやっているかを申し上げたいと思 います。 連合は「働くことを軸とする安心社会」の実現を掲げています。資料に、「『働 生協の災害支援 防災 減災の取り組み 東日本大震災支援 忘れない 続 ける つながる  ・義援金 35 億円  ・くらし応援募金 7 億円(累計、継 続中)  ・ボランティア活動 7 万人(累計、 継続中) ○熊本地震  ・義援金 11 億円(153 生協)  ・人的支援 延べ 3700 名  ・物資支援 325 品目、71 万点超  ・炊き出し 24 回、6000 食超  ・ボランティア活動 引越し支援、仮 設住宅でのサロン活動など  ・行政、社協、NPO との連携  ・高齢者・障がい者などのケア ○地域防災の取り組み  ・「緊急時における物資供給等に関す る協定」→ 46 都道府県・657 市区 町村と締結  ・大規模災害を想定した行動計画と、 定期的な訓練 ほか http://mirai.coopnet.or.jp/csr/csr_ report.html よりダウンロード可能 12 パネルディスカッション 1

[close]

p. 15

fig.5「働くことを軸とする安心社会」の実現に向けた政策パッケージ(図版作成=連合) くことを軸とする安心社会』の実現に向けた政策パッケージ」を 1 枚の絵 にしたものがございます(fig.5)。 教育・家庭・雇用・失業・退職という 5 つの島にそれぞれ橋が架けられて いるのですが、真ん中の雇用には島の中にも橋が架けられています。この橋 III は、同じ雇用でも、正規雇用と一般に非正規雇用と言われているパート や派遣といった働き方の人とではいろんな格差がある。今、同一労働・同一 賃金ということが論点に上っていますが、そういう雇用形態の違いによる格 差をなくしていこうというのを表したのが真ん中の橋 III です。 それ以外に、たとえば左上の教育と雇用、つまり働くことを繋ぐということ で、すべての子どもたちに学ぶ機会を保障するとか、誰もが排除されないイ ンクルーシブな教育システムをつくっていくとか、「貧困の連鎖」を断ち切 って、学ぶ場と働く場を行ったり来たりできるような関係をつくっていくこ 13 Kyoritsu Brochure 009

[close]

Comments

no comments yet