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2016.12.28 vol. 248 特集号 幾多の月日を重ねて今 SUCCESSORS’ SUCCESS 東京大学 工学部都市工学科/ 工学系研究科都市工学専攻 都市デザイン研究室 http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/ 回想-7 年の月日を想う    p.2 かつての「同志」の挑戦と展望 p.4 まちなかの足跡を探って    p.12 編集長: 黒本剛史 編集委員:王誠凱 中井雄太      神谷安里沙 田中雄大      中村慎吾 松田季詩子    

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回想 - 7 年の月日を想う Remember Prof. Kitazawa on His Seventh Death Anniversary. 北沢猛先生が亡くなってから 今月でちょうど7年が経過した。 私たちは北沢先生を知らない。 しかし、先生が築いてきたものは 7年の歳月のなかで大きく成長し、 私たちの世代にも生き続けている。 北沢先生が遺したものは何だったのか? そして今どのような形で実を結んでいるのか? それを探るべく、私たちはまちづくりの現場へ赴いた。 北沢先生特集第4弾。 リレーインタビューと取材旅行から北沢先生に迫る。 2

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       目次   ➢ か つての「 同 志 」 の 挑 戦と展 望        - 信 時 正 人 氏インタビュー -               p.4 ➢ま ち な か の 足 跡 を 探 っ て     ― 喜 多 方 か ら 見 えてくるもの -    p.12 3

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信時 正人 氏 東京大学都市工学科 16 回生。 1981 年三菱商事入社、 2002 ~ 2005 年に㈶ 2005 年日本国際博覧会協 会(政府出展事業 企画・催事室長)を経て、 2006 年 1 月東京大学大学院新領域創成科学研究 科特任教授。 初代 UDCK 事務局総長を務める。 2007 年 4 月~ 2016 年 3 月横浜市に入庁後、都 市経営局都市経営戦略担当理事、 温暖化対策統括本部長を経て、横浜市温暖化対策 統括本部 環境未来都市推進担当理事。 2016 年 4 月エックス都市研究所理事、横浜市参与。 東大大学院都市持続再生学コース(まちづくり大 学院)非常勤講師、横浜国大客員教授。 かつての「同志」の挑戦と展望 —信時正人氏インタビュー His Ally Overlooks for the Future ――The Interview with Mr. Masato NOBUTOKI UDCK、UDCY という2つのアーバンデザインセンターを北沢先生と共に立ち上げ、つい先日 UDC initiative を設立された信時氏。 商社出身の感覚を根幹に多くの職を歴任し、「既存の枠組みの打破が必要だ」と語る氏の取り組みと展望、そして北沢先生との交流に迫る。 (聞き手:M1 田中・中村・松田、編集:M1 松田) ▶北沢先生、UDCK との出会い い大勢の中の 1 人でした。  実際にお話をしたのは私が大学に移った について、「聞いてるよ、お前後輩だろ」くら いで 1 回目はあっさり終わった。でも 2 回目に、 - 北沢先生との出会いを教えてください。 2006 年です。柏の開発はその時点で三井不動 「信時さんさぁ、ちょっと手伝ってくれないか  横浜市の都市デザイン室長でいらっしゃっ 産がやることになっていた。僕は三菱商事を なぁ」と言われた。それが一緒に UDCK を立 て、その後、東大に移った方ということで、お 2002 年に辞めまして、愛・地球博の日本館の ち上げることになったきっかけです。 名前は知ってましたけど、初めてお会いしたの 事務局長や政府出展の企画・催事室長などを 3 - その間に、北沢先生の構想のなかに信時さん は三菱商事時代の 2000 年前後ですね。TX が 年半ほど務めたんですね。それが終わったとき が入ったということですね。  できて新しい駅ができるということで、その駅 に、かつて、まちづくりの勉強会の東大側の中  ここの構想は、大学の人だけでは無理だと思 周辺のまちづくりについて民間企業として勉強 心だった大矢禎一先生から、東大の内部の人間 われたんでしょうね。運営もそうだし、経営な 会をしていた時に東大の先生方ともいろいろと としてまちづくりに関わらないかとオファーが どの感覚的なものから、ネットワーク作りなど、 情報交換、意見交換をしたことがありました。 あり、まさか僕が、と思いましたが、非常に興 民間企業の感覚を持った人がいなきゃだめだと 東大が初めてまちづくりに関わるかもしれな 味があったので、謹んでお受けしました。当 いうことだったのかな。 い、ということで、三井不動産だけでなく三菱 商事、他の企業も開発に向けて動いていた頃で 時の小宮山総長は柏に思い入れがあったよう で、柏の葉国際キャンパスタウン構想 1) を進  で、僕は僕で、最初は UDCK だけの担当で はなくていろんな先生方の研究と企業を結び した。その時は既に新領域ができていたから、 め、地域との密着・連携に初めてトライしてい 付けるなど、インキュベーションの仕事を請 そこの先生方と、まちづくりや、未来の大学と たんですよね。そこでビジネス感覚と国際感覚、 け負っていたけど、UDCK については、誘わ 街のかかわり方についての勉強会だったんです 都市工出身者としての感覚などを買われたのか れる前から話を聞いていて、内心すごく関心が ね。そのメンバーの 1 人として北沢先生が 1,2 な、僕がその担当の特任教授になったんです。 あった。僕はもともと人生の中で都市のマネジ 回出てきたことがあって、そこで名刺交換をし  学内の色んな会議に出る中で、何かの会議で メントとか経営をやりたかった人間で、商社に たのが最初。だけどその時は話も出来ず、お互 北沢先生と再会しました。初めて同じテーブル 行ったのも、1つはそのためなんです。世界に 1) 柏の葉国際キャンパスタウン構想:2006 年度から千葉県、柏市、千葉大、東大の四者によって検討され、2008 年 3 月に策定された構想で、柏の葉エリアにおいて公・民・ 学の連携による国際学術都市づくりに向けて重点的に学術研究資源の活用と国際化を推進するため、具体的な目標と方針を定めたもの。UDCK(2006 年 11 月開設)もこの 連携のコーディネイトを担う要として、構想の中に組み込まれている。 4

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(左)初代 UDCK(2006.11~2010) (上)K サロンの様子。UDCK サイトによると「K」とは「柏の K か北沢先生の K か、 特に決まっていない」そうだ。特定の目的を持たず、門戸を誰にでも開いている は City manager 制度 2) というのがあります が、僕はこれになりたかった。メイヤーではな く市の「経営者」であり、議会がアサインして、 経営手腕がなくては首になる。学生時代、日本 でもこんな仕事はあるべきだろうけど、日本の 状況から言って無理だなと思った。では、まち づくりを経営体として受け入れうる企業体はど こかと考えると、ある地域の不動産開発や、建 設だけではなくて、産品売買や各種サービスな ど、いろんな面にビジネスの根を張っていて、 国際展開もあり、そこで利益を出すことのでき る商社だったんですね。入社してからも全く理 解されなかったが、中長期的には都市経営を仕 事としてやりたいとずっと主張していた。  まちの経営手法の1つに事業者が地域の経営 体となる BID 制度がありますが、これは色ん なやり方があるけど、例えば土地を持っている 割合に従ってお金を出して、それを第二の税金 のような形で自治体に拠出し、このお金を自治 体がまた事業者が作った社団等に戻して地域の 経営を任せます。役所に任せたら十把一絡げに 同じようになるのを、BID 内ではエリアの価値 を上げるために集中投資をしてもよい。イベン トで儲けても構わないし、イベントだけじゃな く種々のビジネスをしかけていいんです。柏の 葉では既に三井さんが 1 人 BID みたいなもの で、街を経営していこうとされています。  そういったエリアのマネジメントができそう なものとして、UDCK の可能性を感じていた ので、北沢先生が「一緒にやらない?」と言っ てくれた時には、僕としてはこれには乗るしか ない、と思いました。  でも、びっくりしたのは、その時点で三井さ んはもちろん、千葉県の堂本知事(当時)とか、 柏市の本田市長(当時)とかにまで北沢先生は ご理解を得るため話をしてたんですよ。これが あの先生のすごいところで、商社マン的な交渉 までしっかりやっていたわけ。本田市長は都市 工の先輩でもあったが、堂本知事にも、いろい ろ手を尽くしたんでしょうね。詳しくは分から ないけれど。  柏市が内閣府の知の拠点再生事業というもの に手を挙げる、というところでも UDCK を発 表するところでも私はご協力しましたが、北沢 先生が僕に頼んだのは UDCK の設立への実施 作業にあたって協力しろということだったんで すね。色々と試練もありましたが、面白いし、 思い切ってやりました。 ▶「オープンな場」だった UDCK - 当時の UDCK はどんな雰囲気でしたか?  もう少し汚くて、しかも窓が大きいから机で 作業していたりすると周囲からも丸見えです。 研究室のような雰囲気で、大学院生たちの作業 の場でもあったんですよ。UDC の理念を達成 するためには産、官、学、市民と異種異能な人 を集める必要がありましたが、十分ではないが ある程度成功していたようにも思います。らら ぽーとに来た子連れの夫婦がフラッと入ってき て院生のプレゼンを聞いていたり、当時から今 も続く K サロンには、特段のイベントでもな いがワイワイ集まってくれたりもしました。  また、大学院生がいたために、変な話だけど 若い人と話したい地元の人たちもいて、そうい う方もやって来てくれたかなと思います。しか もそこで単によもやま話をするだけではなく て、院生の話を聞いて「協力してあげようか」 となる。「農業もまちづくりに関係があって」 と話すと、「じゃあ農協の誰それを紹介してや るよ」という地元のお父さんがいたり。動機は どうあれちゃんと協力してくれるし、東大の学 生の研究に協力しているんだ、と、ご自身のこ とも誇りに感じられてうれしいのではなかった でしょうか。単なる話相手じゃなく、価値のあ ることと思って来てくださっていたのではない かと思いますね。  UDCK をオープンな場にするきっかけとし て K サロンを企画しましたが、それだけでは なくて、普段から常に誰かが入ってきて、フリー で相談をしている感じの、密接なコミュニケー ションの空間となりました。 ‐ 設立当時の UDCK が果たした役割とは何で すか?  地域住民への " 教育・啓発 " が、1つの大事 な役割です。縮尺 1/1000 の模型があって、 見ると自分の家の位置までだいたいわかる。あ るときふらっと入ってきたおじさん(工場の 2)City manager 制度:20 世紀初頭、行政サービスの拡充を目指してアメリカにて採用された制度。議会が採用し、専門家として様々な行政サービスの提供、日常的な自治 体組織の運営に当たる。現在は全米の市町村の 67~8% が City manager 制度を採用するのみならず、巨大都市でも積極的に採用される。人口上位 10 都市のうち、第 2 位の Los Angeles 市を筆頭に 7 市が導入している。「アメリカの City manager は個人事業主であって、各自治体でキャリアを積み、段々と大きな自治体に移っていく。(信時氏)」 5

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LaLaPort KASHIWANOHA Residential area in construction block 147 block 148 Kashiwanohacampus Sta. ( 左)柏の葉キャンパス駅周辺。これでは まだ東大のサテライトオフィスが見えず、 TX 沿いの街区も造成中である (右)地権者向け説明会で将来構想を説明 する北沢先生 ――都市を作ったあと、その経営を UDC がコントロールできるのではないか。 オーナー)が、未開通の都市計画道路を指して、 「間に俺の工場あるけど、どうなるの?」と聞 かれたことがありました。僕が「繋がるんじゃ ないですか?」と言うとびっくりして、「え? いつ?」「わかりませんが、5,6 年先じゃない ですか。市に聞いてみますか」「そうか、どか なきゃいけないの?」「かもしれませんね」と いう会話をしたこともあった。役所が今までの ように地主さんの家に直接お願いに行っても追 い返されて終わるようなことを、自然と、熱く ならずに考えることができるし、模型があると 街がどうなるかも視覚的に伝えられる。  さらには、まちづくりマネジメントの 1 つ として、産官学と市民それぞれにとって利益と 意味のあるフラットな話し合いの場所になれ ば、という役割。具体的には、柏の葉国際キャ ンパスタウン構想について住民の方々のご理 解・協力を得ることですね。駅前に土地を持た れている三井不動産以外の地権者様に構想をご 説明する機会を持ったこともありました。日本 では私権が強いから、自分の土地は基本的に何 をしても自由。建築基準法、都市計画法、風営 法とかを守っていたら何を作ってもいいですよ ね。でも、やはり柏の葉キャンパス駅周辺は国 際キャンパスタウン構想に基づきこういうこと を考えている、というのをお伝えする機会が あってよいだろう、という発想で、地権者、住 民の皆さんとも将来構想を共有していくことが 6 重要だと考えました。 ツではないでしょうか。海外にも UDC のよう  都会の真ん中でも建築について地域住民が反 なところは多くあるのですが、こういう場所は、 対することがよくありますよね。住民の方々が 家族連れでの外出の目的地になったりしてい 運動を起こすことになるまで事情を知るのは、 るんです。UDCK を見にくるきっかけとして、 ある程度決まってしまってから。しかし、そう 人を寄せるものになってほしかった。 なってからではすでに遅いことが多いです。そ  運営の中では、自治体の街づくり系の委員会 れよりも、ここが目指していたのは、これから はなるべくここでやって頂けるように柏市や千 開発という段階で、まちづくりについてみんな 葉県にお話をしていて、真ん中に模型があり、 で話し合おうということ。公民学でのまちづく 必要ならそれを見ながらまちづくりの話し合い りはそこがミソです。住民の方々は住むことに をしているという状況つくりを目指しました。 関しては “ プロ ” じゃないですか。だから住ん ‐ 対して、結果から見えてきたものは? でいるプロの意見を受け入れて、というのは考  地元の自治会とかに公民館の代わりのような えようによっては当たり前のこと。 感じでご利用いただくことがありました。絵画  都市は作ったあと市民が受け入れるかどう 展とか、写真展とか。この場所はそれまで何も か。建物を建てる人は作ったら終わりで、少な ないところに建設しましたから、潜在的なニー くともこれまでは経営ということをしていな ズがあったってことかもしれないですね。 かった。テナントならどんどん入れ替え、時代  もう 1 つ、あえて人選をしたわけではない に合わせて人の入るものにするとか、住んでい ので偉そうには言えないですが、いらっしゃる るなら如何に地域を楽しくするかとか、そうい ディレクターさんの人的魅力は外せません。常 うのは管理ではなくて「うまく回す」経営の範 駐している人が、にこにこ、ほんわかしていて 囲ですよね。今まではそういった機構がなかっ 魅力的である、お話をしたくなる人だというの たけれど、UDC なら経営もコントロールでき が重要だったと思いますよ。僕がというわけで るのではないか、と思ったんです。 はなくて、後をついで来てくれた人たちは皆、 -UDCK が地域の方の寄る場所や、地域の方を 魅力的な人たちばかりだったと感じます。僕は 呼ぶ場になったというのは、ハードを作っただ 「旅館の女将」のような人が必要だよね、と良 けでの成功ではないと思います。UDCK の組 く言っていたんですが、この人に会いたいな、 み立てから意識したことはありますか? と思わせる魅力のある人が真ん中にいる必要が  やはり大きかったのは、模型というコンテン ありますよね。

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▶ UDCY の試み - 信 時 さ ん は 北 沢 先 生 と と も に UDCY、 そ の後 UDCSEA も作られていますが、後続の UDC についてもお伺いしたいです。  UDCY は北沢先生と一緒に作った僕にとっ ては 2 つ目の UDC。ネットワーク型シンクタ ンクといっていますが、要するに、決まった拠 点がなくて、ネットワークだけあるんですね。 スポンサーがないからお金もない ( 笑 )。  初めは、横浜にあるハイブローなアート拠点 である BankART の支配人の方と北沢先生が 仲良かったから、BankART スクールの一環と して部屋を貸してもらい、UDCY の前身とな るスタジオ、UDSY(ヨコハマアーバンデザイ ンスタジオ)なるものをやり始めたんですよ。 隔週で木曜夜に一回集まって、ここに民間企業 や、大学の先生、学生達、横浜市役所、建築事 務所、アーティストとか、公民学のいろんな人 が集った。そして、北沢先生をセンター長と して 2008 年 4 月に UDCY が成立した。今の YCC(当時は BANKART1929)、馬車道駅の 上にある歴史的な三角の建物を使って、僕が司 会でオープニングパーティをしました。  当時の中田市長も、阿部副市長もお祝いに来 てくれました。でも横浜市としては UDCY の スポンサーにはなりませんでした。理由として は、横浜はまちづくり系の団体が沢山あるから、 行政としては 1 つだけすくい上げるわけにい かないということだったように思います。特に 現役で市の中枢にいる面子が在籍していたら、 なかなか自治体のお金は出せないですよね。で も市長なんかは我々の話し合い内容に興味を 持ってくれましたし、実際に、UDSY の中で のエコ戦略チームの提案が、僕のいた温暖化対 策統括本部(当時は地球温暖化事業本部)の施 策にもかなり影響するなどしています。  更に、市の四ヶ年計画が出たのですが、その 中に、「海洋都市横浜を目指す」、というコラム があります。ここで言われている将来の横浜像 を実現していくためにも、新しく UDCSEA(ヨ コハマ海洋環境みらい都市研究会)を作りまし た。「港町」というのは演歌の世界だけの話で、 普通は港とまちは別々の論理で成り立っている のですが、海のわきに立地しているという特質、 有利さを活かしたまちづくりができないか、と 前々から考えていたこともあります。また、「う み協議会」という産官学の組織を持った横浜市 自身や、海センターという組織を持っている横 浜国立大学とこれから綿密に連携できていけば よいな、と思っています。 ‐ 最初に UDCK を北沢先生と立ち上げてから、 短いスパンで UDCY に取り掛かられています。 短期間のうちに UDCY の作成にこぎつけた理 由はありますか。  北沢先生に勧められた、などではないのです が、その後僕が横浜市に転職したとき、北沢先 生はちょうど市の参与だったんです。参与は OB かつ、非常勤の取締役のようなもの。当時 の中田市長のブレーン的存在でありました。僕 は都市経営局の都市経営戦略室の都市経営戦略 担当理事という立場で、その組織自体が市長の ブレーンの組織。だから、またまた非常に近い 距離で仕事をすることになりました。  その年、2007 年の夏ごろかな、「信時さん、 UDCY も作ろうよ」と北沢先生から声をかけ てもらったんです。もともと北沢先生は横浜で もやりたかったのだと思います。横浜は巨大す ぎて一つにまとめるのは大変だし、いろんなま ちづくり団体もある。だけど、様々な課題を解 決するために公民学のやり方は当然必要になっ てくるので、UDCK みたいに、地元だけでな く民間企業も仲間に入れたグループを作ろうと いう構想でした。北沢先生自身は市の OB です ので、市役所の中には仲間が多いし、大学の先 生仲間も大勢いる、というような状況の中で、 最初から人脈的には恵まれていたと思います。 ‐ スポンサーの有無が大きな違いだと思います が、潤沢な資金のある UDCK に対し Y を予算 なしで動かせたのはなぜですか?  何かがスタートするという物珍しさに加え、 集まったネットワークの中に、やる気のある人 がたくさんいたということではないでしょう か?僕は北沢先生から産業界を中心に人を集め るように、民間は任せる、と言われました。東 京電力、東京ガス、パナソニック、三菱地所、 三菱重工、など横浜市周辺の思い当たる企業 から誘っていったんです。UDCY の前身とな る UDSY の研究体制として、都心、郊外、交 通、緑地、エコ戦略、5 つのチームを作りまし た。僕はエコ戦略のチームリーダーだったんで すけど、他チームは学生とか地元の人が多いな か、僕が自分で声をかけた人が集まってきたか ら、うちのチームはダークスーツの企業人が多 くて、黒い軍団とも呼ばれました。  発足時の予定では全部で 25 人くらいの予定 だったのが、最初から 50~60 人集まったんで す。しかも、回を重ねるごとに増え、最終的に は 90 人近くとなりました。 ‐ つまり口コミで、直接関係がなかった人々も やってきたのでしょうか?  そうですね。役所の方も、声をかけた / かけ ないに関わらず増えました。役所での会議では、 役職的に下の人間がなかなかしゃべれない、み たいな感じもある。ところが UDSY に来たら、 みんなよくしゃべる。僕の部署からも係長の女 性がきてくれて、見ていると議論をすごくリー ドしてくれていたので、それくらい普段もしゃ べれば?と言ったんですがね。民間も、よくわ からないけどなんか始まっているから参加しな きゃ、みたいな人も、半ば仕事で内容をチェッ UDSY の会合の様子                   BANKART1929(当時)、UDCY のオープニングパーティでの北沢先生 7

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――分野どうしのマッチングと新しい分野の実現へのサポートは、 UDC のような組織がやるべきだと思っています。 るというお話がありました。UDC についての 展望をお話しいただけますか。  UDCK を 筆 頭 に、 い ま 15 か 所 の UDC が クしたいという人もいましたが、意外な人が  方針を定めるような意味で「統括」するつも あります。関西にももう 1 個できそうですよ。 チームの主力となったりとか、様々で面白かっ りは僕にはない。どうぞご自由に、というスタ 大都市から地方まで様々な対象があるけど、そ たです。みんな色んな立場でのアイデアは持っ ンスなんです。まちづくりにはいろんな能力の れを 1 つの知にして、情報を統括することが ているんですよね。そういう人たちの集う場が 人がいて、やりたいことも多種多彩で、僕が全 必要なんじゃないかと思ったんですよ。これか できたのは魅力だったと思いますよ。 部にプロなわけでも、リーダーシップをとれる ら自治体や大学が新たに UDC を作ろうとした  僕のチームから街でミツバチを飼おうとい わけでもない。ただ、やっていることの情報を とき、もちろんノウハウの棚卸しもしないとい うアイデアが出て、みんなで「ハマブンブン」 俯瞰的に握っている人という意味では統括かも けませんが、我々自身がコンサルにもなれるの (Hama Boom Boom!)と名付けて、実現に ね。俯瞰して、方向さえよければお任せし、必 ではないかと思うのです。更にもっと大事なこ 向けて動き出していたときがありました。その 要であれば当然サポートする。やっている人が とは、UDC 自身がサステイナブルにならない グループの中に、普段は大メーカーでごみ処理 自主的に、自由にやれることがいいわけです。 といけない。そういうプロジェクトを進める主 プラントの技術をやっている、まちづくりに関 ‐ 全 体 を 把 握 す る、 と い う 戦 略 は、UDSY/ 体の必要性を感じ、出口先生や UDCK 設立時 係なさそうな人がいましてね。彼が、元町商店 UDCY に最初からあったのですか? からのメンバーで UDC initiative という社団 街の、いつもお茶をしに行っている喫茶店で、  戦略としてはあったわけではないけど、自然 をつい先日、11 月 22 日に設立しました。 店の人に「この辺でハチを飼えるところないで にそういうことが必要かもなあというのは感じ ‐UDC intiative が UDC のブランドとして機 すかね」って相談した。そうしたら店のお母さ ていました。あちこちで何をやっているかを 能するという感じでしょうか? んと娘さんで考えてくれて、その結果、場所を 知っていれば、いろんなものをつなぎ合わせる  そうそう、UDC のプラットフォームといっ 紹介してくれて、元町商店街で、6 年前からハ 事もできるし、それは必要なことですからね。 たほうがいいかな。ほかの UDC の上か下かは チを飼うことになったんですよ。 各々がそれぞれの分野で一生懸命進めていくこ わからない。みなさんのサポートをするし、何  いまは数万匹を飼育中なんですが、取れるハ とが基本だけど、そのうえで、新しい展開や、 かあれば協力し、何かで引っ張っていくことも チミツは年間 60~90kg くらいになる。それを いろんなヒントをほかの活動から得られるわけ あるかも、という存在。 地元の霧笛楼という超有名なフランス料理店が です。その辺のサポーターとしての存在も必要  仕事内容の 1 つは、さっき言いましたが、 買ってくれているんです。あそこのハニーロー ですね。そのようなマッチングと新しい分野の 新たに UDC をつくるとき、自治体や大学への ルは元町産のハチミツを使っているんですよ。 実現へのサポートは、UDC のような組織がや アドバイザー、コンサルみたいになること。そ その彼は、いまハチミツづくりの人として元町 るべきだと思っています。 れから、もう 1 つは「人材づくり」を事業に の中でも有名になってきている。実は、その縁  プロジェクト同士のアライアンスとして、た しようと思っている。各 UDC をリードする がきっかけで喫茶店の娘さんと結婚しちゃっ とえば、上流下流を繋いでいる川という視点か ディレクターさんが必要ですが、まだ人材層が て、子供もできて幸せにやっているんです。活 ら、下流の横浜市と水源地の山梨県道志村の関 薄いですよね。そういう人材を育成する機関は 動自体も、地元の元自治会長さんやら、いろん 係についても僕のチームで考えました。企業と 東大のまちづくり大学院にもありません。最 な商店主、地元のデザイナーや弁護士に至るま 同じように自治体同士もこれから特徴を活かし 近、エリアマネジメントなどのネットワークが で、町内会の総出といってもいいくらいになっ あい、アライアンスを組む時代ではないか、と。 全国にできつつありますが、こういった職能を ています。 人口・金・技術等の都会の持っている要素と、 持つ人間の数は少ない。人材育成は急務ですよ。  霧笛楼の社長も本当にサポートしてくれてい 森林・水、きれいな空気・木材等の素材・二酸 UDC には現場があるから、OJT で人を受け入 るんですが、霧笛楼には全量の半分を卸してい 化炭素吸収、の山村地域、それぞれがお互いに れることもできるのではと思います。 て、残り半分は自力で他の喫茶店とかパン屋と ない良い点を補い合うんです。実際に横浜市と ‐ 過去のインタビューの中でも UDC への人員 かに売っています。だから元町の中で小さいけ 道志村との連携にはカーボンオフセットなどの を作るための障壁として、職業とするにあたっ れど経済が回っている。作るだけっていうとこ 具体策などもあって、いろいろと考え、行動し ての金銭面の問題が挙げられてきましたが、克 ろは沢山あるけど、地域に還元して、地域の人 てきています。 服するためにはこれからどのような部分が必要 が喜んでいる、までいくとあまり例がないと思 います。養蜂技術的にもいろんな経験を経て、 自分なりのノウハウもできて、他にも教えられ ▶ UDC のプラットフォーム、 UDC initiative の構想 になってくるとお考えですか。  新しい視点の事業と、新しい観点のファイナ ンスが必要かもしれませんね。 るレベルまで来ているしね。さらに今は、はち ‐ 他の方のインタビューにも、北沢先生も  現状、企業、自治体、または大学の補助で みつの味や量が地域の植生や気候を反映してい UDC の理念の部分に関しては厳格でなく、自 成り立っている事例が多いです。だから今後、 ることから、横浜市の環境創造局の緑生担当の 由にやっていいというのが特徴で、だからこそ UDC が自身の価値を持ってリリースできる事 方にも仲間になっていただいたり、研究も視野 UDC も 10 年くらい経って柔軟に変わってい 業が必要かもしれません。独自のサービス、企 に入れた多角的な展開を考えています。 ‐ 色々なプロジェクトを統括していらっしゃる ――各地の UDC でそこをリードするディレクター、 が、多種多様なプロジェクトにアドバイスする 際に配慮することはありますか。 8 そうした人々の「人材づくり」を事業にしたい。

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画をもって、補助金頼りでなく生きていける方 法を考えていきたい。アイデアはあるのですが、 今までの金融の世界では、一部例外を除いて、 こういうところにお金はあまり回ってこないで すよ。とくに企業からは。  今、日本全体を見渡した時に、国や自治体は 大きな借金を抱えていて、一番お金を持ってい るのは企業。しかしなかなか、企業もお金はあ るのに投資のマインドが弱いですよね。出した くなる主体がいないんだ、というある銀行の人 の話を聞いたことがあるのですが、見えていな いだけではないかな、と思うのです。クラウド ファンディングとかもありますし、CSV3) の 流れもあります。直接は関係ないかもしれませ んが、パリ協定の批准で世界的にお金の流れが 変わってくるといわれていますし、実際に変 わってきています。少し大きすぎる話になった 感がありますが、今までの金の流れを少し変え ねばという動きを UDC initiative も検討して、 まちづくりへの新しい金融の流れを作っていく こともできればと考えてます。  CSV(creating shared value)とは、CSR のような単なる寄付ではなくて、価値を創造し あっていくという取り組みです。分かり易い例 で言えば、キリンビールは森林にすごく「投資」 するんです。なぜならキリンの事業の源はビー ルにしろウィスキーにしろ飲み物ですので、き れいな水をサステイナブルにつくらないと成り 立たない。結果として山も生きていきます。最 近、世界では石炭火力にお金が回らなくなって いる話を知っていますか。日本はまだですが、 ヨーロッパでは特に、環境にいいものにしか投 資しないというのが生まれてきている。お金の 流れがコロッと変わり始めている部分はあっ て、そういうのに期待をしたい。UDC にその 中のどの辺りが回ってくるのかはわかりません けど、これまでの常識だけでは図れないと思い ます。希望を持ちたいと思います。 ▶行政、コンサルの立場から ‐UDC のほかに、信時さんの現在の取り組み についてもお聞かせください。横浜市役所に 入って 9 年になるということですが、転職を 経験されて行政に入ったのはなぜですか?  一番大きなのは、一度、行政を経験したいと いうことかな。それと、行く先の部署名が、都 市経営局、都市経営戦略室、都市経営戦略担当 理事で、まさに City manager の名前だった ので。この名前が都市整備局だったら行ってな いかもですね ( 笑 )。  当時副市長が 4 人いたんですけど、助役か ら副市長にそちらも名称変更したところでし た。当時の中田市長としてはそれぞれに責任を 持たせたいという思いを込めていて、1 人に 1 つ、4 個のプロジェクトを持たせたんです。少 子高齢化社会対応、新たな大都市制度対応、地 球温暖化対策対応、クリエイティブシティ・創 造都市対応、この 4 つですね。僕は全部の副 市長のプロジェクト会議に入ってました。都市 の経営だから、全てに関わらないと全貌が見え ない。本当は市長や副市長がその役割を果たす べきなのかもしれないが、忙しいので、行った り来たりできたのは僕だけだったです。面白 かったです。 ‐ 北沢先生も横浜市でしたが、より古い、アー バンデザインを役所がやるという考えがそもそ もない時代にいらっしゃったわけですよね。  横浜市役所はもう 40 年以上都市デザイン室 というのがあるわけですよ。デザインが色や形 だというのは日本くらいのもので、欧米ではラ イフそのものを指す非常に広いコンセプトなん です。昔の都市デザイン室もそういう発想のも とに、ハードのデザインとはいいながら、その 背景や戦略も含めてやっていたのではないかと 思います。北沢先生が現役でいらしたころは非 常に広範なことをやっていて、都市デザイン室 が OK しないと何も進まないという時代だった ようですが。  僕のいた温暖化対策統括本部は、市の建制順 (局の序列のようなもの)の一番上にあって、 温暖化対策を切り口に全市的な広範な意識で やってきています。 ‐ そちらで都市デザインをやっている、という ことですか。  いわゆる都市デザインではないですが、温暖 化対策のために社会や生活をどうデザインして いくのか、ということです。例えば電気自動車 (EV)について。EV が社会に浸透するだけで、 まったく今までと違うライフスタイルが生まれ てくる。車庫がいらず、家電と同じように家の 中に入れられるかもしれない。すると、そのま ま車椅子やベッドになってしまうとか、EV が AV システムに変貌するとか、自動車と住宅の デザインのコラボレーションが本当に必要に なってくるのではないか、と思うのです。日産 さんに言わせると、EV はそのものが 1.6 トン のスマホだ、と。だから、ただ街を走らせるだ けじゃ意味がなく、「EV がある街はどんな街か」 を考えなきゃいけないわけです。自動運転車も 3)CSV:CSV(creating shared value)、CSR(corporate social responsibility)。共通価値の創造と訳される。CSV は後者に代わる概念として 2011 年にマイケル・E・ポーター により提唱された。 9

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意外に早く普通に登場する時代が来るようにも 思いますが、技術的な可能性、生活の可能性の 両面から、今あるものの延長線には未来の生活 =まちは、もうないと思っている。  そういったことを考えると現状の法規制が ネックになっていくのだろうな、と思います。 新しい技術の社会実装には、技術そのものの進 展と新しい製品つくり、ユーザーとしての市民 も一緒に参加して使用方法を考えていかなくて はならないし、更に、国や自治体も参加して今 の法規制で良いのかどうか、と見極めないとい けない。UDCK が頑張っている、セグウェイ の世界もそうですよね。UDC という存在が、 公民学のコラボレーションを生んでいく中で、 こうした技術の社会実装への拠点にもなる可能 性がありますね。社会のデザインをするのも UDC の役割だと思います。 ‐ 現在在籍しておられるエックス都市研究所で やられていることも、技術の社会反映による都 市のデザインということと関係していますか?  ここでは、技術も含めた都市全体の戦略をデ ザインする中でのコンサルの新しい関わり方を 模索しようとしています。エックスは都市工の 3 回生が起業した会社で、当時では、今でいう ベンチャー企業でした。都市と環境の両輪で始 めた珍しい会社だったかもしれません。創業者 たちは 20 代で国からも先生と呼ばれて都市計 画を論じていたようですよ。都市マスタープラ ンを作るというのが当時の主な業務内容で、か なり大きな金額でのお仕事だったようですが、 今では同じ案件でも 10 分の 1 くらい ( 笑 )。  少し、厳しいことをいいますと、日本のコン サルって文章を書くのがもっぱらですよね。年 度末に、体を酷使して報告書を書いて商売して いる。でも、そればかりでは将来はないと思っ ている。すごく頭のいい優秀な人間が、素晴ら しい文章を書いていても、もう大きな金額には ならない。だから、そこにとどまっていないで、 ワンランク上にいこうという話をしてます。つ まり文章での提案だけではなくそれを実施する ことによって、「誰かの手足」でなく「頭」になっ ていかなくてはいけない。だからエックスでは、 発注元の問題はありますが、得手不得手の異 なる他のコンサルなんかとアライアンスを組ん で、一緒にプロジェクトをとって、プロデュー ス会社になりましょうと言っている。  僕が横浜でやってきた環境未来都市 4) って いうのは、温暖化対策だけではなくて、健康福 祉とか高齢化、経済、国際的なあらゆる面に取 り組み、都市輸出も目指すものです。今年で 丸 5 年なんですが、これが来年度は SDGs 未 来都市(仮称)ということになると思います。 SDGs5)(Sustainable development goals) とは持続可能な開発目標として、去年の 9 月 に国連が決めたもので、それを目指して都市を 作っていこうというものです。今、内閣府が担 当の環境未来都市推進協議会の中にも SDG s 検討会を作って、横浜市と北九州市が幹事にな り、来年の1月にセミナーを横浜でやるつもり です。  エックスは前言の通り都市と環境の二本柱だ が、それだけではだめ。しかし、各自治体も、 SDGs の17の目標値をすべて網羅して戦略を 立て、全方面的に取り組むのは実質不可能では ないか、と思います。その都市ごとに、独特の " もと " があるはずなので、自治体ごとにストー リーを作るべきだと言っている。うちの都市は こんな都市だ、というのが、まちづくりの主張 にしろ政策展開にしろあるはずで、そのストー リー作りと施策の実践のお手伝いをエックスと してプロデュースできれば、ということを今 思っている。そうなってくるとエックスだけで は到底できない部分を、コンサル同士にとどま らず、メーカーやゼネコンなどと連携していく 必要があるだろうなぁ。 ▶北沢先生の思い出 - 信時さんから見て、北沢先生はどういう方で したか?  僕がお会いしたときには病気が進んでらした みたいだというのは後でわかったことだけど、 それでもお酒が好きでね。いたずらっ子みたい なところがあって、なにせ明るくて人間的に面 白いんですよ。横浜市で仕事していた時にも、 仕事中に電話がかかってくる。「いまどう?ひ ま?」「ああ、時間ありますよ」「ねえちょっと 来ない?」そうすると、役所ではなく役所の近 くにある喫茶店の窓辺でパソコン開いて、いつ も待ってるんです。会うと、「あのさぁ…」か ら入って、「きみ、どう思う?」と、遊びの話 でもないのに、密談めいてこっそり話すから、 ああこうやって知事とか市長にもあたっていっ たんだな、と思ってね。固くなくて、話を聞き たいなと思わせる。  写真とかでわかると思うけど、ちょいワル男 風で、くそまじめでなくて、髪も巻いているし、 いつも革ジャンを着ている。どなたかがおっ しゃってたサングラスは見たことないけど、な んかこう…裏で活躍している人みたいな雰囲気 だったね ( 笑 )。でも人間ってさ、大通りより も路地裏とかが好きじゃない。少し怪しいけど、 そこに行くといろんな人がいて楽しくて、場末 の飲み屋にいろんな情報や、濃密な人間関係が あって…そういうのを想起させる。濃密なんで すよ、お話が。本人は表通りの人なんですけど ね。やっていることは大上段だし、肩書きも東 大の教授だし。  だけど、例えば市長が入った役所の中の会議 セグウェイを使った実験走行、UDCK 4) 環境未来都市:2010 年6月に閣議決定された新成長戦略の 21 の国家プロジェクトの 1 つで、内閣府が主導している。環境、社会、経済という3つの側面を一定水準で満 たしつつ、革新的な取り組みによりここから価値を創造する都市。横浜市を含む全部で 13 の都市が選ばれている。 5)SDGs:2030 年までに達成すべき「持続可能な開発目標」。国連が定めた 17 の目標から成る。国での窓口は外務省。環境省は今年 7 月にステークホルダー会議を招集した。 10

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――" この人とだったら楽しそうだなあと思ったから、一緒にやらしてもらったんです。" の場でも率先して提案したり、新しい出会いを 作っていくことにも積極的だった。プロジェク トを作っていくというのはそういうことだと思 う。きれいな文章を書いたってそれ自体は何に もならない。裏には本当にいろんな作業があっ て、「こうしてもらいたい」と人に言うにしても、 それがどれだけその人の得になるのかが求めら れるのが世の中。だから大きなこと、きれいな ことも言うけど、そういう部分にちゃんと目を 向けて、裏と表をわかって動く先生だった。す べては理想に向けて、という感じですね。 ‐「アーバンデザイナー北沢猛」という本で、 信時さんの寄稿を拝見しました。北沢先生の、 市民の幸せ、市民に根付いていくようなものを やらなければいけないという強い主張を引き継 いでおられるのかなと思いました。  引き継いだというか、同調した。もともと自 分の中にあったものが、北沢先生と共鳴したと 思う。だっていくらいいことを言っていても、 嫌な先生だったら一緒にやらないよね。この人 とだったら楽しそうだなあと思ったから、一緒 にやらしてもらったんです。 ‐ 北沢先生は行政の目線をお持ちで、信時さん は民間に強い方だという、その目線の違いが刺 激になったのですか?  北沢先生からは常に、お前は企業の人間、民 間の人間を集めてこい、って言われた。当然育っ てきた世界の違いによる人脈の違いを生かせと いうことだったと思うし、逆に僕は横浜の重鎮 のメンバー、あと大学の先生とか、北沢先生の 持ってる質の良い人脈を紹介してもらったしね ( 笑 )。そこは補い合ったかもしれないですね。 歴史が違って経験も違う、人脈も違うけど、根 本的な考え方・思想が共通していたからうまく やれたのかなあ。 ‐ 影響を受けたことは何でしょうか。  北沢先生と同じにはなれないけど、近づけ ればいいなという気持ちはあるよ。UDC の全 国の目標値 100 個だ、というのは僕にとって は遺言なので、目指していこうかなと。UDC initiative もその試みの 1 つ。各 UDC がそれ ぞれ生きていってくれないと、せっかく自治体 のことを考えてやっているのに、いろんな理由 で予算の切れ目が縁の切れ目になってしまった ら、なんのためにやっているか分からないよね。 でも甘えていられないので、1つ1つを自立さ せる方法について考えるようになったけど、そ ういったことを進めたいな、と思うようになっ たことそのものが、影響かもしれない。北沢先 生のように表に裏に(?)動いて仕上げていく、 みたいなことが必要だなぁ、と思っています。  UDC を増やし繋げるのは、まさに新しい都 市のシステムとして、必要だからなんですよね。 上から下への一方通行ではないフラットな公民 学の関係つくり、そしてネットワークです。こ れは再生可能エネルギーの形に近い。スマート グリッドとは、発電所がお互い補い合って変動 なくどこでも常に一定の量を配給できるように 需給をコントロールするということ。たとえば 太陽光とか風力とかはそのままだと地域の電力 にはできない。これを地域に根付かせるために は、スマートグリッドの技術が不可欠です。つ まり、再生可能エネルギーを実社会で使うに は、小さい発電所をいっぱい繋げるってことで しょ。いままでの電力ネットワークのように巨 大な 1 つではなく、ある場所がだめになって も全体のネットワークは無事に保たれるレジリ エンシーが備わる。BLCP というやつです。  そういう小さいものをネットワークしてい く、小さな発電所のネットワークのような、都 市経営の時代の 1 つの重要なノードになるの が UDC だと、そう考えている。国から言った ら自治体もそうだけど、先に言ったエリアマネ ジメント会社や、個々の UDC もそれぞれが独 特であり、それぞれが小さなエリアにコミット している。加えて、そのネットワークには個々 の知恵が一斉に集まって強くなる。生物も単一 よりも多様な方が環境の変化に強いでしょう。  僕は City manager になることが一生の目 標でもあったけど、ちょっと早かったのか遅 かったのか、現実に都市経営手法が変わってい く姿を見ていて、各地の都市のマネジメント、 或いは、プロデュース主体としての UDC の在 り方を追求し、実践していくことが自分の人生 の目標となっていくのかもしれませんね。■ * * * 関連書籍 アーバンデザイナー北沢猛 未来社会の設計 秋元康幸 著 北沢猛+ UDSY 著 信時さん、お忙しい中、沢山 の時間を割いてくださり誠に ありがとうございました。リ アルタイムのわくわくする実 務 の お 話 か ら、「 都 市 を デ ザ インすること」への関わり方 の幅広さを改めて教えていた だいた気がします。 次 回 の 方 も ご 紹 介 い た だ き、 神山プロジェクトという挑戦 現 在 編 集 部 で 鋭 意 検 討 中 で グリーンバレー+信時正人 著 す。どうぞご期待ください! 11

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まちなかの足跡を探って —喜多方から見えてくるもの— Follow Footprints of Prof. Kitazawa in Kitakata    \  「 地 元 」 か ら 見 え て く る も の が あ る - そ う 信 じて編集部が訪れたのは福島県喜多方市。  北沢先生が育ち、晩年に深く関わってきたこ の町にはどんな手がかりが遺されているのだろ うか? 元喜多方プロジェクトメンバーである D2 土井さん、そして地元の方々の協力のもと、 取材を行った。 ▲市役所通りを歩くメンバー。市役所通りは喜多方で北沢先生を振り返る際のひとつの鍵となる。 「訪喜」メンバーから 取材スケジュール D2 土井 祥子  今回の取材旅で新しく知ったことがふたつありました。  ひとつは、市役所通りの拡幅計画をめぐって地元住民の方々と行政当局が激しく対立した局面で、 北沢先生がその間に立って「円卓会議」を設け、沿道型街路整備の実施にこぎつけられたこと。そ の場に立ち会われていた方々からのお話を聞くにつけて、感情がぶつかり合うような場でも穏やかさ を失わず議論をリードしていかれた北沢先生は、「東大らしからぬ黒革ジャケットの先生」から、ま ちの方々にとって揺るぎない同志になっていかれたのだと実感しました。  もうひとつは、最近造り酒屋の蔵元や老舗旅館で若い世代が次々と戻ってこられているということ。 「人間」と「時間」と「空間」の “ 三つの間 ” をつなぐのがまちづくりだ、語っていらっしゃったと いう北沢先生が、何より喜んでくださることではないかと思います。  そして今回、北沢先生のことも喜多方のまちも知らなかった修士の皆さんがこのまちと出会ってく れるお手伝いが多少なりともできたことで、また新しい “ 間 ” が生まれ、広がってくれたらとても嬉 しく思います。 1 日目 7:00 東京発 野岩線・会津線経由で北上 13:00 喜多方到着 ラーメン屋にて昼食 14:00 ~ 芳賀英次さんとまちあるき 引き続き、小荒井まちあるき 17:00 ~ 「北沢先生を偲ぶ会」 居酒屋にて1次会開催 M2 黒本 剛史  一年ぶりの PJ 遺産めぐりは、濃霧とまちの熱気が立ち込める喜多方へ。蔵の街と名高い喜多方 ですが、実は初めての訪問です。  お世話になった北沢先生のことだから、と多くの関係者が集まり、思い出を語りました。夜の懇 親会では、ラーメンと地酒とお話を贅沢に堪能しました。北沢先生と 7 年間の PJ メンバー、そし てその後も関わり続けた野原先生の功績が、都市空間や人々の中に強く刻まれていました。  そして今回の訪問は、PJ のあり方を考える機会でもありました。まちあるきやマップといった PJ の手法の多くは、喜多方の頃既に行われていました。都市デザイン研のまちづくり手法の中にも、 確かに北沢先生は生きていることに、気付くことができました。 22:00 2日目 ラーメン屋にて2次会開催 笹屋旅館泊 笹屋旅館十八番部屋 笹屋旅館は、北沢先生や喜多方プロジェクトの 定宿で、この十八番部屋は北沢先生の定位置 だったとか。先生を良く知る女将さん曰く、先 生は宿ではおとなしかったらしい。 女将さんから北沢先生の話を伺う M1 神谷 安里沙 12  東京から鈍行列車をはるばる乗り継いでやっとたどり着いた喜多方。当時のプロジェクトの先輩 たちも最初はそうやって来ていたということを後で知り、東京を出た時から喜多方での足跡を辿る旅 は始まっていたのだなあと気づきました。  大学が喜多方と関わっていたのはもうずいぶんと前のことなのに、今回お会いした当時の関係者 の方たちの口から、北沢先生のことはもちろん、野原先生や研究室の先輩たちのことがつい昨日の ことの様に語られ、その成果がずっと活かされていることに驚きました。先生やプロジェクトで大勢 の学生が直接かかわっていた最盛期の様な強い繋がりはもうないのに、それを種としてこちらでは ずっと活動が続いていて、新しい活動も生まれている。大学として地域に関わっていく意味の大きさ を、身をもって知ることが出来た気がします。  プロジェクトが終わってしまった今、学生が直接喜多方に関わることはないだろうと思いますが、 喜多方から学んだことを活かして、現在参加しているプロジェクトの地域でしっかりと足跡を残せる ように活動していきたいです。 8:00 笹屋旅館発 ラーメン屋にで朝食 市役所にて小田付今昔物語展 見学 小田付・小荒井まちあるき 11:00 ~ 星宏一さんへインタビュー ラーメン屋にて星さんと昼食 三津谷登り窯見学 15:00 22:00 喜多方出発 東京着

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会津の在郷町、蔵とラーメンのまち喜多方 喜多方市は、福島県の北部、奥羽山脈や越後山脈などの豊かな山系に囲まれた会津盆地に位 置しています。中世より在郷町として発展した商人のまちであり、市民の力によって成長し 小荒井 小田付 てきました。まちは、中心を南北方向に流れる田付川を対称に、小荒井地区と小田付地区の 大きく2つの地区によって構成されています。 そして何よりも、喜多方は、北沢先生が幼少期から中学時代まで過ごされたまちです。北沢 先生は、アーバンデザイナーとして再び故郷喜多方と向き合ったのです。 田付川 繁栄とまちづくりの歴史 喜多方駅 喜多方のまちの構造 西 平安 暦8 0 7 年 安土桃山 111 555 678 492 年年年 江戸 明治 1 11 8 88 6 78 8 30 年 年年 昭和 11 1 1 99 9 9 77 7 8 25 9 5 年年 年 年 平成 1112 9990 8990 7351 年年年年 22 2 2 2 2 00 0 0 0 0 00 0 0 0 0 24 5 6 7 9 年年 年 年 年 年 2 0 1 5 年 出 僧会 小 六 小 来 事 「津 荒 斎 田 徳に 井 市 付 一お の が の 」け 町 開 町 がる 割 か 割 恵熊 り れ り 日野 る 寺信 を仰 開の き中 、心 会地 津に に。 仏 教 文 化 三 斎 市 が 開 か れ る 。 が 栄 え る 。 戊 喜喜 辰 戦 争 多多 方方 製大  小 田 付 糸火 工 場  蔵 が のの 焼 か れ る 開重 業要 性 が 再 認 識 さ れ る 。 金N 田H 実K 氏新 の日 蔵本 の紀 写行 真「 展蔵 開ず 催ま い の ま ち 喜 多 方 」放 映 伝 統 的 建 造 物 群 保 存 地 区 保 存 対 策 調 査 歴 み ち 事 業 喜 多 方 ラ ー H O P E 計 「 蔵 の 里 」が 「 蔵 の 会 」結 文 化 庁 委 託 蔵 の フ ォ ー 開メ 画整成調ラ 始ン が備 査ム の策さ 「開 ブ定れ 喜催 ー ム さ れ る 。 、蔵 が 移 築 さ れ る 。 多 方 観 光 ま ち づ く り 提 案 作」 蔵 み っ せ 開 催 初 代 ま ち づ く り 寄 合 所 ( 喜 多 方 分 室 )開 設 喜 多 方 ま ち づ く り 研 究 会 発 足 周 辺 4 町 村 と 対 等 合 併 し て 、現 在 の 喜 多 方 市 が 発 喜 多 方 市 役 所 に ま ち づ く り 推 進 課 発 足 く ら は く 北 喜 小伝 沢 多 田統 先 方 付的 生 蔵 地建 喜、 多 方 で の 仕 事 に 一 区 切 り の ま ち づ く り セ ン タ ー 設 立 区造 に物 お群 い保 て存 、地 区 ( 文 化 庁 に) 向 け た 調 査 成 足 開 催 開 始 喜多方 PJ のあゆみ 文化庁委託調査をきっかけに始動した喜多方 PJ。90 年代から動き始めていた喜多方の蔵のまちづくりは、北沢先生 を筆頭とする都市デザイン研究室チームが加わることで、様々な主体を巻き込み、加速していった。 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 駅前通り景観協定締結 (2002) 駅前通りの拡幅に合わせた一体的な 沿道景観整備のための景観協定 初代まちづくり寄合所 (2004) くらはく(蔵のまちづくり博覧会)(2007) 空き蔵を改修し、一時的にまち 民・官・学・産の多主体が行なっ づくり活動の拠点として開設さ てきたまちづくり活動の現況を整 れました。実際に空き蔵を使う 理しつつ、今後の方向性を考える ことで利活用の可能性を地域に ための博覧会。まちじゅうに展示 示し、新たな利用者を見つける を仕掛けるこの博覧会自体が「ま ことに成功しました。 ちづくりの実験」でもありました。 13

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8 9◀駅前通りにある蔵庭(ポケッ トパーク)。 拡幅の際に中途 半端に余った土地を県が買い 取り、 蔵庭として整備してい る。蔵庭内には、電線地中化 に伴って地上に設置する必要 が生じたトランス(配電設備) が置かれている。 なお、ここに使われている煉 瓦は喜多方・三津谷登り窯で 焼成されたものである。 76 ▲駅前通り沿いにある丸見食堂。この基 本設計は北沢先生によって行われており、 建物の外壁には、北沢先生への謝意を表 ▲沿道の外観は、景観協定に基づいて、統一感のあるファ す記念プレートが掲げられている。 サードとなっている。 ▼駅の観光案 ▼喜多方駅のそばにある大きい石蔵は長ら 内所には、な く使われていなかったが、現在は農産物直 んと 10 年 前 売所として活用されている。 に喜多方プロ ジェクトで 制 4 作された「喜 多方蔵之地 図」が当時の まま貼られて いた。 5 ▲景観協定を結んだときの中心メンバー であった民芸店・あくた川。元々は全く趣 の異なるレンタルビデオ店だった。 32 ◀喜多方駅前は市 によって整備が行 凡例 われている。喜多 方 駅 舎 は、2005 国道 年に会津を舞台 県道 市道等 に開催されたデス ティネーションキャ ンペーンをきっか けとして、 蔵をイ メージしたデザイ ンに改修されてい る。 1 小荒井 小荒井地区には、ふれあい通りと呼ばれる通りが南北に走っており、多くの店舗 が建ち並ぶ。ここにはかつてアーケードが存在したが、老朽化や景観上の問題 から、2008 年にすべて撤去された。アーケード撤去の際に積雪対策として無 地区 散水消雪が住民の強い要望で導入されたほか、駅前通りと同じく電柱の地中化 や景観協定の締結も実施された。こちらの通りも拡幅が計画されていたが、駅 前通りで道幅を拡げすぎたという反省から、拡幅については見送られた。 1日目夜食処:伊藤食堂 20 小荒井 12 21 14 10 19 1118 9 15 13 17 ふれあい通り 32 22 31 16 喜多方 市役所 30 1日目昼食処:丸見食堂 駅前通り 拡幅未実施区間 駅前通り 駅前 喜多方駅から北へと伸びる駅前通りでは、都市計画決定に基づいて整備が行わ れ、幅員 20m へと拡幅された。拡幅に際しては、電線の地中化および、無散 水消雪(道路の下に這わせたパイプに地下水を流して雪を解かす消雪方式)の  通り 導入が行われるなど、先進的な取り組みが実施された。また、道路整備と併せ て景観協定が締結され、良好な景観づくりが行われている。駅前通りの整備経 験は、小荒井地区のふれあい通り整備に生かされている。 喜多方まちあるき MAP 北沢先生と喜多方の関わりを探るべく、編集部は喜多方ま ちあるきを実施した。県が整備に大きく関わった駅前通り ふれあい通りでは、芳賀さんに案内していただいた。 元喜多方建設事務所長 芳賀 英次 さん 14 JR 磐越西線 7 6 4 8 15 23 喜多方駅 昭和電工 喜多方事業所 市役所 通り 30 32▼拡幅済の区間(写真手前)と、  若喜商店の対角に位置する 拡幅未実施の区間(写真奥)と 笹屋旅館。こちらは拡幅に伴 の境界。 写真手前部分は幅員 い、曳家で建物を移動した。 2 0 mにまで拡 げられており、 ▼拡幅未実施区間のようす。 歩道も非常に広く採られている。 道路は両側拡幅が予定されて いるが、写真左には喜商店の 歴史的価値の高い建物が並 ぶ。写真奥の交差点で交わる のはふれあい通りである。 31

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10 14 17◀景観協定を締結した エリアから一 歩 出ると 大きな看板を出した自 動車販売店が出店。  設計まちづくりテント が設計を手掛けたラー メンミュージアム & ラー メン神社。 ▼アーケード撤 去 にあたって、 いち早 く店前のアーケードを取り払った茶舗・ 16 島慶園を訪れ、当主の長島さんからお 話を伺う。 ▲景観協定によって統一感が保たれている町並み。道路整備以降、 15新しい店も入ってきており、ふれあい通りは賑わいを呈している。 ▼ふれあい通り沿い蔵庭。こちら の蔵庭では、トランスを目隠しする ための工夫が為されている。 12 11 13 ▲建築事務所「設計まちづくりテント」を 訪れ、喜多方でまちづくりを行う高橋さん から、町についてお話を伺う。 18◀ふれあい通りに並行する裏道。蔵を 裏から見られる個性的な道だが、舗装 が統一されていないなど課題が。 ◀喜多方の蔵元の一つである大和川酒 造。喜多方プロジェクトメンバーの宿泊 用に蔵を貸してくださっていたらしい。  染織工房れんがにも立ち寄り、喜多 方プロジェクトが活動していた頃の昔話 をお聞かせいただいた。 19 20 22 ◀登録有形文化 財である三十八 間 蔵。38 間 に わたって複数の 蔵が連なってい ることからこう名 付けられた。 ◀ 同じく登 録 有 形文化財の甲斐 本家蔵座敷。最 近になって市が 買 い 取った が、 活用法は模索中 である。 21 ▲金田洋品店にて、蔵を記録 し続けた金田実さんの本を見 せていただいた。 ◀若喜商店で冠木さんに挨拶 を 行う。こちらも登 録 有 形 文 化財だが、道路拡幅問題に揺 れている。 田 付 三津谷登り窯 (約3km 先) 川 小田付 29 28 24 27 23 26 25 小田付 田付川を挟んで小荒井地区と反対側に位置する小田付地区には、蔵や古い町並 みが比較的良好な状態で残されており、景観の保全や蔵の利活用の推進などが 進められてきた。2010 年には景観協定が締結され、また最近では伝統的建造 地区 物群保存地区(伝建地区)の指定に向けた動きが進められている。なお、こち らの地区では、駅前通りや小荒井の道路整備の結果も考慮して、無散水消雪の 導入は見送り、電線も地中化ではなく裏配線化とすることが決まった。 23 市役所通り 市役所通り 24 2 日目朝食処:坂内食堂 0 100 500 m 凡例 国道 県道 市道等 ◀焼成され た煉瓦。 ▼登り窯の 建屋外観。 ▼喜多方郊外には登り窯が現存。 市民有志によって再生され、蔵な どに用いられる煉瓦を焼成してい る。2013 年グッドデザイン・地域 づくりデザイン賞を受賞。 三津谷 登り窯 26 27 ◀古い建物が残る小田付のメインス トリート。 地 元 の 活 動 の 結 果、 道 路 の縁石の撤去が実施されている。 ▼ 古くからある道 沿 い には、 水 路 が 残されている。 25 ◀小田付では味噌樽に使 われていた木材などを使っ て塀の修景が進められてい る。野原卓先生もこの作業 を自ら行っていたそうだ。 ▼南町 2850 プロジェクトに よって修復された蔵。地元 の高校生が WS を重ねた結 果、絵本の蔵へと生まれ変 わった。 28 ◀蔵を活用 した 酒 店・ 和飲蔵。店 主の星さん にはインタ ビューをお 願いした。 ▼歴史的価値も認められる長屋。前 面の国道の拡幅が進められようとして いるが、 拡 幅されるとこの 長 屋 は 立 退きを迫られることになる。 29 15

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