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2016.06.30 vol. 242 特集号 広がり THE PRIDE AS ゆく想い A PROFESSIONAL. 東京大学 工学部都市工学科/ 工学系研究科都市工学専攻 都市デザイン研究室 http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/    北沢猛先生特集 第3弾       野原卓先生を訪ねて p.2 北沢先生と横浜の都市デザイン p.8 横浜交流まちあるき p.10 編集長: 黒本剛史 編集委員:富田晃史 中井雄太 王誠凱 浜田愛 神谷安里沙 田中雄大 中村慎吾 松田季詩子

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野原 卓 ( のはら たく ) 横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院准教授 東京都世田谷区出身 東京大学工学部都市工学科卒業・同専攻修士課程修了 2009 年博士 ( 工学 ) 取得 2003 年 -2010 年都市デザイン研究室助手 野原卓先生を訪ねて —北沢猛先生特集 第 3 弾— The Interview of Assoc. Prof. Taku Nohara in Yokohama - Special Feature: Prof. Takeru KITAZAWA #3 -  北沢猛先生特集は昨年度より始まった連続インタビュー企画。故北沢先生に縁のある方々をリレー形式で訪ね、その人物像に 迫 り ま す 。 鈴 木 先 生、遠藤先生に続く第 3 弾の今回、文 化 祭 真 っ 最 中 で 賑 わ う 横 浜 国 立 大 学 の 野 原 先 生 の 元 へ お 伺 い し てき ま し た 。 (編集:M1 浜田・M1 神谷・M2 王 ) - 都市工に入られた経緯を教えて下さい。  僕はもともと文1出身で、進振りで理 転枠を利用して都市工にきました。なの で最初は建築をやるつもりはなかったの ですが、教養時代の「東京のインフラス トラクチャー」という授業で、社会基盤 の篠原先生が駅舎のデザインの話をされ ていて、自分で設計して作ったものが世 の中に残る素晴らしい仕事があるんだと 感動して、その世界に行ってみようと思 いました。進振りのときに、建築みたい な単体のものづくりよりは、まちみたい なものを作るのが楽しそうだと思い、そ れで都市工にきました。だから最初は周 りに負けずに頑張らなきゃ、というがむ しゃらな感じはありましたね。必死に泣 きそうになりながら、皆さんと一緒に学 部の 2 年間を過ごしました。 - 野原先生と北沢先生との出会いは?  僕が大学 4 年生になった時に北沢先生 が横浜市から東大に先生として帰ってき ました。僕もデザインにも都市にも関わ る仕事がしたいと最初から思っていて、 そして北沢先生は実際にそういうことを 授業でやってくださる先生でした。これ は僕がその頃の演習で作った図面です。  4 年生の最初の課題はやっぱり横浜市 にいらっしゃったので、横浜で。日本大 通りにある「商工奨励館」という4階建 ての保存した建物があります。ここを対 象に、日本大通りの景観を考えるチーム や商工奨励館の再生チームなど 5 班に分 かれ、僕はこの敷地の設計課題を選びま した。これでやった設計を北沢先生に、 なんかいいじゃん、って言われてその気 になって、この世界に来ました。本格的 な出会いは多分ここでした。 - 修士の頃はどのような学生生活を送ら れていましたか。  修士でも北沢先生と一緒にいれば単に 設計だけでもないし単にまちの組み立て だけでもない、その間を一緒に考えなが ら空間とまさに計画を一緒に考えられる と思って、何も迷わず都市デザイン研究 室を選びました。修士は結構自由で、当 時の研究室は大学院で十数人くらいの感 じでした。今の研究室の皆さんも仲がい いと思いますが、昔はコンパクトで高い 密度がありました。当時は 9 階の入り 口に丹下研究室時代からずっと続く長机 が 、コ ピ ー 機 の 前 に 一 列 に 置 か れ て い て 、 そこで研究室会議をしていました。プロ ジェクターをコピー機の上の壁に当て、 今の 8 階の会議室みたいに 30 人でやる 2

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本当にフラットな人で、表裏や分け隔てがない。 人を取り込む力にかけては抜群でしたね。 ような規模ではなく、こぢんまりとした アットホームな研究室会議でした。 - デザ研で関わられていた PJ について  プロジェクトは北沢先生が来てから盛 んになってきた感じでした。それまでも PJ が なか っ た わ け で はないですが、チー ムでという感じではなく、基本は先生と 学生が一緒にやるのが主流でした。  僕の時は、福岡のアイランドシティと いう埋立地の住宅地部分を開発から守る ために立ち上がったチームに、もう一人 の同期と入って、その水辺をうまく生か した町のプランニングなどを皆で考える プロジェクトをやりました。また、僕が いた頃に同時に岩手県を順番にめぐるプ ロジェクトが始まりました。大野村が一 番 有 名 だ と 思 い ま す が、実はその前から、 二戸とか九戸とか、何箇所かで 1 年ず つくらいで北沢先生と何人かの学生が提 案をしていくという活動をやっていまし た。遠藤さんもやっていたはずです。幾 つかの地域に分割して、まとまって地域 を考えていく久慈振興局という岩手県の 部局があって、北沢先生はそこの人に頼 まれ、順番に地域を巡っていきました。 その際に八戸で講演をしていた時に、旧 大野村の重役だった人が北沢先生を捕ま えて、始まったのが大野村 PJ です。 - 大学に戻られた経緯を教えて下さい。  修士を出て設計事務所に 3 年間勤めて いたので、ちょうど喜多方や大野村が始 ま っ た 頃 は 僕 が い な か っ た 時 で、PJ が 盛んになり始めた頃に、研究室を一度離 れました。働き始めて三年くらい経った とき、次の展開として小さい事務所など に入りたいとか思っていたので、たまに 北沢先生に相談していました。ある時期 に北沢先生から電話がかかってきて、遠 藤さんがアメリカで研究するので、人が 一人減ったということで呼び戻されまし た。 そ れ は 2003 年 の 6 月 で、 そ の 月 から北沢先生とある種学生じゃなくて同 僚でもない、部下のような部下じゃない ような、そんな立場で一緒に仕事するこ とになりました。 - 北 沢 先 生 と 活 動 さ れ た 3 つ の PJ( 大 野 村・喜多方・京 浜 ) に つ い て 教 え て 下 さ い 。 ★大野村プロジェクト:これは当時人口 6,000 人くらい、今は、旧種市町と合併 して、人口約 2 万弱の「洋野町」となっ た、旧「大野村」という村において、大 きな村の全体計画を作るという話と、そ の作った計画を元にしながら地域の人達 と 一 緒 に い ろ ん な PJ を 起 こ し て い く と い う の を 組 み 立 て て い る PJ で す。 そ の 5つの地区に毎年1年ずつ入っていっ てその地区の計画を立て、そして計画を 立てた次の年でそれを実行していくとい う形をとっていました。新領域創成科学 研究科空間計画室で関わっている田村の PJ の モ デ ル は こ こ に あ り ま す。 僕 は 最 初の立ち上げ期から入ったわけじゃない で す が、PJ や っ て る 途 中 か ら 実 際 に い ろんなものが動き出すことになっていた ので、遠藤さ ん の 後 任 と し て や り ま し た 。  北沢先生はもともと行政マンなので、 やはり市とか自治体の経営や将来どう なっていくかをちゃんと考える仕組みと か人材とかが必要だと強く意識していま した。じゃあ田舎の村で行政の人たちと 一緒になりながら地域全体を魅力ある自 治体に発展させるにはどうしたらいいか というときに、小さい単位で町の人と一 緒に小さい計画を立てながらそれを実行 していきつつ、その担い手を作っていく という手法の仮説を実験していました。  北沢先生が1番テクニックとしてすご い の は 、地 元 の 活 動 や す で に あ る「 事 業 」、 あるいは、元々ある資源を見て、これが 使えるんじゃないかっていうのを見抜く ことでした。事業を全部やり直しにする のではなくて、事業の中だけど上手い工 夫 を し て 組 み 立 て て い く こ と で、 ど う やって次に導けるようにするかというこ と を 考 え て い き ま し た 。そ れ だ け で な く 、 北沢先生は本当にフラットな人で、市長 と喋った次に地元のおばあちゃんと普通 にしゃべる、その態度がもう全然変わら ないので、子供達とも一緒になれる雰囲 気でした。表裏や分け隔てがなく、人を 取り込む力にかけては抜群でしたね。 ★喜多方プロジェクト:喜多方は僕のい な い 2001 年 か ら 始 ま っ て い て、 最 初 4年間は北沢先生と直下学生でやってい た PJ で し た。 だ か ら 最 初 は 関 わ っ て い なかったんですが、ある年から補助金を しっかりもらえることになったので、手 伝うことになりました。喜多方は現場の 地域の実態を空間も含めてどういうふう にマネジメントしていくかということに 重 き が 置 か れ て い ま し た 。報 告 書 に は「 ま ちづくり提案」というまち全体の提案な んかも書いてはあるんですけど、どちら かというと、あるまちの部分の地域をど うよくするかという話が中心でした。  北沢先生は喜多方は4歳 ~14 歳まで 10 年間住んでいた第2の故郷なので、 すごく思い入れもあって、単にプランで どうするということだけではなくて、本 当にまちを愛していました。なんか小学 校のころに書いた蔵の絵っていうのがこ の 本 (「 ア ー バ ン デ ザ イ ナ ー 北 沢 猛 」) に あるんですけど、小学校時代からやはり まちを愛していたんですね。 旧大野村、地元の方との 1 枚 北沢先生少年期の喜多方の蔵の絵 (「アーバンデザイナー北沢猛」より引用 ) 3

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京浜臨海部シンポジウムの様子 (2007 年 1 月) ★京浜工業地帯:北沢先生は横浜市が第 3の故郷といいますか、14歳の時から いて市役所にも勤めてきたので、横浜市 全体のあり方ももちろん考えていたわけ ですが、京浜はもっと大きいスケールの 話です。日本や産業のあり方とか、都市 の臨海部がどうなのかという話では、そ ういう横浜という圏域を超えた中で考え ていく大きな計画として位置づけていま す 。実 は 、北 沢 先 生 の 中では、1 9 9 0 年代、 都市デザインフォーラムで行った「アー バンリング展」の頃には、アイデアはで き始めていて、この後京浜工業地帯をと りまく海全体の臨海部を再生するあり方 を 模 索 し 5 0 年 後 の 横 浜を描く「海都(う み の み や こ ) 構 想 横 浜 2059」、 通 称 イ ンナーハーバー構想と呼ばれる計画を作 られました。  横浜の埠頭がだんだん必要なくなって いて、事前にその工業地帯の将来的な活 用を考えておく必要があるということ で、 始 め た の が 京 浜 臨 海 の PJ で す。 た だ し、 住 民 が ほ と ん どおらず、 市民と WS をする感じではなかったので、まず は研究としてやろうということになり、 建築の先生も土木の先生も環境とか他の 分野の人たちも一緒になって、多角的に この京浜を見直していこうとしました。  実際に本当に何か動くところまで今で も行ききれてないんですが、こういう将 来を見立てて都市の大きなあり方をきっ ちり考えていくっていうのが最近とかく 失われがちなのです。常にはつくり続け ないにしても、そういう大きな都市のグ ランドビジョンみたいなものを、ある場 面で、皆でもう一回見なおしたり考えな おすっていうのはすごく重要だと思って らっしゃったと思います。 3 つの比較:ということで、スケールが 喜多方大野村京浜の順に違う、というの んとそういうものも位置づける必要があ が構造的比較です。 るのではないかと思います。それもあっ て今大田区でもっと小さいスケールでも - ど う し て 野 原 先 生 は 京 浜 を 博 論 で や ろ のづくりの PJ を続けてやっています。 うと決められたんですか。  近代の都市計画はきれいな住宅地をつ - 北沢先生が PJ っていう形がいいんじゃ くる計画で、産業革命があって密密した ないかと考え始めたきっかけは? 都市から逃げるのが最初のスタートでし  ずっと横浜市の職員として活動してこ た。一方工業地帯っていうのは日本の都 られたこともあり、都市をみていくとき 市計画の用途地域などにおいてむしろ に、観念だけいじっていてもしょうがな 端っこに追いやられる機能になってい くて、実際の現場がどう動くか、コミッ て、工業地域の中の道路計画って意外と トして行くことが大事だと思っていらっ ちゃんとやらないのです。だけど、いく しゃったとは思います。建築家は世の中 ら21世紀になったとはいえ、全部自給 いっぱいいるけど、都市を設計して、そ 自足で生きるわけにはいかず、モノとの れを実際の空間に落とし込んで実際の仕 関わりは必ずあります。ということは、 事にしていく、いける人材が世の中にあ モノを作ってる人がどこかに必ずいると まりにいなさすぎると思っていたんじゃ いうことですね。いくら無人化されたと ないでしょうか。世の中は発注の仕組み いっても全く全部が無人になることはな で仕事になるかどうか決まっていて、必 く、工業地帯の中で働いている人がいま ず建築の設計か土木の設計か、何かに最 す。その働いている人は、住宅はとても 後還元されちゃうんで、都市全体の設計 きれいな家に住んでるのに、働いてる時 をやる都市設計業務というのは可視化さ にはもくもく煙の空気吸って働く環境で れないわけですね。唯一できるのは北沢 いいのでしょうか。そう考えると、一見 先生の時代は行政だったんだと思います 都市から追いやられている、モノをつく し、実はそれがだんだん変わって UDC るところもあくまで都市の一部なので、 (Urban Design Center)になったと ちゃんと一緒に考えていく必要があるの 思います。 ではないかと僕 は 思 っ て い ま す 。な の で 、   一 方 で 、 現 場 は 現 場 で そ れ し か や ら な こ の 京 浜 工 業 地 帯 の PJ は、 僕 の 中 で も いから、都市全体のあり方にそれが還元 モチベーション高く北沢先生と一緒に できない。それができるのは今度は研究 やった PJ でした。 者。ちゃんと一個一個の実践を吸い上げ  この興味は結構都市の本質だなと思っ ていくのが大学の役割なのです。北沢先 たし、工業地帯の研究ってほとんど誰も 生もどう吸い上げて、実践的な活動を理 やっていないんですね。そういうことも 論化して理念化していくかというのをす あり、少し体系的に工業地帯やりたいと ごく大切にしてたし、例えばさっきの大 思い、勉強しました。歩いて楽しいまち 野村の話を田村に応用したのも、その自 づくりとは無縁な感じで、ちょっと裏の 治体設計論みたいなものだと思うんで 仕事という感覚ももちましたが、大きい す。最近のタクティカルアーバニズムと 目で見た時には都市のあり方の中にちゃ いうのは、最初に起こすことに重点がお 都市を設計して、それを実際の空間に落とし込んで 実際の仕事にしていく。していける人材を。 5

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ものをそれぞれ出し合いながら協力でき るっていう関係を作っていくにはどうし たらいいか、ということを考えてのこの 社会実験なんです。   僕 ら は UDC を 100 個 つ く れ と 言 わ れていて、皆すごい苦労しています。そ れでも 100 個つくるのは、UDC と名乗 ることで、一つのネットワークができる からです。これは新しい、都市での職業 づくりという意味があります。100 個あ れば 100 個の募集があり、職場があり、 移動もできる。そうなってくるとある程 度の人材が都市を仕事としていくことが 出来るようになってきます。  現在の皆さんの就職を考えてみても、 公務員・デベロッパー・設計事務所、都 市コンサルなどになるかと思うのです が、どれもなかなか都市にうまくコミッ トできないか、お金にならないですよね か れ て い ま す 。 つ ま り 、 い き な り 自 治 体 ( 笑 )。 そ う い う 意 味 で 、 行 政 が 大 事 な ん 全 体 の 計 画 を 考 え る の で は な く 、 そ こ で ですけど、今 の 制 度 で は な か な か 難 し い 。 実際にイメージできる、市場やマーケッ それを UDC という場所を通して、プロ トというイベントを仕掛けていき、これ フェッションとしての都市への関わり方 をどうしていくかを考えていく、その戦 をきちんと作らなければいけないと思っ 術論だと思うんですね。 たんじゃないでしょうか。センターの名  という意味で、全体の戦術論をちゃん 前をとにかく「UDC」にせよと言われ と組み立てていけないといけません。そ てましたが、それは、人材の流動性を生 こまで行き着く前に先生は亡くなってし むためでもあったと思います。 まわれたと思うんですが、最後これを理  実際の現場で、本当によりよいまちづ 論化して、都市の作り方をちゃんと考え くりを進めてゆくには、やはり、空間や ようとされていたと思うんです。こうい 場所も大事であって、いざ、本当にいい うのはなかなか行政の職員にはできない 空間や場所をつくるには、結局、専門性 ので、やはり大学の立場と職員の立場み ある存在も協働しないと、皆の声だけ聞 たいなのを上手くハイブリッドさせなが いたら良くなるとも限らないですよね。 らどういうことをやっていくかっていう そういうところを目利きしながら次の方 の を 考 え た 時 に PJ と い う 形 が、 一 番 良 向に導ける人材の育成が大切で、それが いと思ったのでしょうか。 UDC かなって僕は勝手に思っているん です。 - ア ー バ ン デ ザ イ ン セ ン タ ー ( 以 下、 UDC) 構想もその延長線上に出てきたん -UDC の理念が北沢先生が亡くなってか じゃないかなと? ら変わってきた部分があるのではないか  そうだと思うんですね。だんだん開か と思うのですが。 れ た 世 の 中 を 作 ろ う と し て も 、 単 な る 行  一方で、北 沢 先 生 は 、あ ま り 考 え ず に 、 政が主導して作るというのもなかなかで とりあえずやってみるところもあって き な い 時 代 に 到 達 し て い て 、 い ろ ん な 人 ( 笑 )、 ま ず は 、 U D C を 初 め て 、 そ の 時 達がちゃんと一斉に集まって、フラット 点では、巧みな UDC マニュアルなどは な立場で皆が議論できるのが、ある種の できていないと思います。やってから考 理想形なんですね。だから企業、市民、 えてみようって、当初からそういう想定 行政とかその間が、変な固定化された立 は無かったんじゃないかという気もする 場じゃなくて、自分たちの本当に必要な ので、評価はしにくいです。でも、UDC 会議ができるくらい数が増えてきたとい うのは、よい状況だと喜んでくださって いるのではないでしょうか。 実 際 皆 全 然 違 う し、 も う 別 組 織、 別 な 仕 組 み が た く さ ん あ り ま す。 そ れ で も UDC の名のもとに集まって話し合う、 そのことに価値を見出したと思うので。 公民学連携を打ち出しているので、色々 な立場の人たちがそれぞれが意見を持ち 寄って、でもそれを専門的に解いて、皆 が集まれるプラットフォームづくりがで きれば、そこさえずれてなければ、細か い違いは地域ごとにあるよねという感じ だと思います。  結局そうならないと時間をかけて巻き 込むことはできない、あんまり理念が強 すぎてしまうと、北沢先生のことを知ら ない人は入りにくいですよね。だから今 の状況は、もし北沢先生がいらっしゃっ たら悲観すべき状況では全くなくて、む しろこういうことをきっかけにして都市 のセンターみたいなものが広がっていく ことそのものを喜んでいるのではないか と思います。 - 野原先生が北沢先生から引き継がれた ものとは何ですか。  北沢先生から引き継いだものとして、 物を広く捉えながらも実際のプロジェク トの中で何か巻き起こして現場できっち りと成果を残しながら、それをもう一度 還元して都市のあり方に戻すというサイ クルと、そのサイクルをきちんと持ち続 けるということは意識しています。僕は 行政マン経験が一つもないので、行政の 立場でどうできるか、どれだけ北沢先生 について考えられるかは未知数ですが。  あとは、楽しくやることじゃないです かね。やっぱりやってる本人が楽しくな いと聞いている方は楽しくないんじゃな いかと思うので、楽しくやっています。 アプローチは様々でいいと思うんですけ ど、皆も楽しくやってほしいと思ってい ます。都市自体を楽しいと思う心があれ ば、都市への愛着もあるし、おかしいこ とはおかしいと思えるようになります。 それを実際に変えないとまちは変えられ ないんです。そこから自分の興味にした がって制度や実際の設計の中に落とし込 むことで皆都市に関わっていきます。そ 物を広く捉えつつ実際の現場でしっかり成果を残し、 それをもう一度還元して都市のあり方に戻すサイクルを持ち続けること。 6

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北沢先生は最後は都市デザイン学会を作り、 都市デザインを学にしたいとおっしゃっていました。 のルーツである、楽しむことや、そこを 良いと思っている原点を忘れないでほし いです。それを思えば北沢先生は常に楽 しそうでした。つまらなそうにしていた のは見たことなかったです。その分ワー カホリックで家でも皆先生がマックに向 かっている姿しか見たことなかったらし いです。仕事が趣味だったと思います。 それぐらい楽しく都市に関わっていけた らいいなと思います。 - 野原先生ご所属の「都市イノベーショ ン学府建築都市文化専攻都市計画研究 室」の位置づけを教えて下さい。  建築と土木と芸術系と、東大で言えば 情報学環みたいな社会学の先生が集まっ ているのが都市イノベーション学府で、 その中で僕らは建築。普通都市工は無い ので、建築学科都市計画系という位置づ けです。横浜が都市を勉強するには一番 ふさわしいということで、都市をフィー ルドとして課題を考えるという意味で都 市という言葉がついています。  それもあり、大学院では実践の演習を やっていて、今年は関内が舞台です。地 区をどうするか考え、リサーチと提案を 行います。これは柏の葉のスタジオを参 考 に し て い て、 単 に ス タ ジ オ で 勉 強 す るだけでなく、学生のアイディアを上手 く 巻 き 込 み、 こ の ス タ ジ オ を プ ラ ッ ト フォームにしながらまちづくりを進めて いきます。そういうことも北沢先生を継 承させていただいていて、繋がっている かな、と位置づけています。 - 都市デザインの立ち位置や役割と、展 望や今後の論点を教えてください。   ど う な ん で し ょ う ね、 ど う 思 い ま す か?僕も意見が知りたいです。都市デザ インって言葉は、一般にはとっつきにく いから、広まりにくくて、変えた方がい いのかは僕もいつも本当に悩みます。そ こだけは北沢先生に聞きたいぐらいで す。北沢先生は最後は都市デザイン学会 を 作 り、 都 市 デ ザ イ ン を 学 に し た い と おっしゃっていました。都市デザインと いう言葉が広いフォーマットだと捉えて いたと思うんです。僕は北沢先生にお前 は都市デザイナーと名刺に書けって言わ れていたように、北沢先生はプロフェッ ションだと思っていたんですよ。そして その第二世代も皆都市デザインはプロ フェッションだと、仕事になると思って たと思うんです。でも 30 年ぐらいたっ てなかなか職能として形にできないのが 歯がゆいところです。  だから都市デザインという言葉で包括 するのがいいのか、新しく言葉でちょっ と都市の枠を広げた方がいいのか、僕も 今悩んでいて、わからないです。でも本 当の想定されていた都市デザインという 言葉はそういう限定された言葉じゃなく て、そのなかにマネジメントの概念は当 時からすでに含まれていたし、都市をま さに大きく導くような調整するような、 こう、より良い方向に持っていく。( こ のうまい言葉が見つからないんです。) そういう意味での都市デザインはむしろ 今必要だし求められていることです。  ただ、都市に関わる主体のあり方が多 様化しているのも事実だと思います。建 築家の人でそれに近い仕事をやり始めて いるひとや、実際にまちに関わってまち を良くしていこうとしているひとたち も、結構出てきています。  その一つの答えを出すための実験が、 UDC ではあるんだけど、まだ残念なが らそこまでは確立していません。これか ら頑張ります、という話なので是非一緒 に考えてください。そして今後も考えて いきたいな、ということだと思います。  あと、海外を見ると全然違います。も う一度最近忘れがちな世界との関わりを 見直してみるのも良いかと思います。世 界全体を捉えてみてみると、全然変わっ て き て い る し 、全 然 違 っ て 考 え ら れま す 。 - 最後に、次の方を紹介してください。  信時正人さんですかね、やはり。都市 工 16 回生でUDCヘッドクォーターと かUDC全体を統括する組織を作ろうと している人です。北沢先生の元で UDC を作った張本人で、UDC を紐解く上で はよいのではと思います。学に関わらず ということで。 *  野原先生、この度はお忙しい中 1 日時 間をとってくださり、貴重なお話と楽し く濃密な交流まちあるきを、誠にありが とうございました。  これまでの 3 名の方々のインタビュー から北沢先生像の共通項が少しずつ浮き 彫りになると同時に、その多様でいきい きとしたそれぞれの違いもまた、北沢先 生のお人柄の魅力を伝えられているよう に感じました。  第 4 弾は、野原先生にご紹介いただい た信時正人様にお話を伺います。次回も どうぞご期待ください。■ 7

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北沢先生と横浜の都市デザイン  Follow Prof.Kitazawa’s Tracks in Yokohama. アーバンデザイナー北沢猛先生を生み出したまち横浜と、北沢先生の関係性を紐解きます。 ( 編集:M1 浜田、M2王、M1 神谷 ) ( 横浜時代 ) 1977 東京大学工学部都市工学科卒業    横浜市企画調整局都市デザインチーム 都横 1978 郊外部歩行者空間検討調査 市浜 デ市 1979 区の魅力づくり基本調査 ザ企 1980 横浜駅東口設計 イ画 ン調    歴史的環境保全整備構想検討開始 チ整    開港広場整備方針決定 ー局 ム 1981 横浜駅東口駅前広場整備 関内地区道路愛称標識 『港町横浜の都市形成史』 1982 開港広場整備 ( 広場公園の初適用 ) 金沢シーサイドタウン計画・デザイン調整 歴史的環境保全整備構想 新羽緑道計画 1983 関内駅南口広場設計『都市デザイン白書』 称名寺参道整備 1984 1985 1986 歴史資産調査実施 『都市の記憶・土木遺産編』 夕照橋周辺整備 金沢区歴史の道整備 開港広場拡張整備 水と緑のまちづくり基本構想策定 磯子アベニュー整備計画 アーバンデザイン研究体 (UDM) 発足・副会長 都 市 デ ザ イ ン 室 係 長 横 浜 市 都 市 計 画 局 1987 夜景演出・ライトアップヨコハマ開始 『ある都市の エリスマン邸 ( 山手西洋館 ) 移築復元 れ き し - 横 情報の道デザイン調整 浜 330 年 -』 創造実験都市横浜会議「横浜都市デザイン宣言」 1988 ★歴史を生かしたまちづくり要綱制定 横浜市歴史的資産調査会発足 走川プロムナード整備 第 1 回横浜アーバンデザイン国際コンペ 横浜デザイン都市宣言 UDM 通巻 2 号 1989 ★日本興亜馬車道ビル ( 旧日本火災横浜ビル ) 旧横浜船渠第 2 号ドック認定 都市デザイン交流宣言 『都 市 デ ザ イ ン 白書改訂版』 WS・横浜 89 実施 (6 大学と横浜市の共催 ) 外交官の家移築復元方針 1990 バルセロナ&ヨコハマ シティ・クリエーション バルセロナ&ヨコハマ シティ・クリエーション記念学生建築設計競技 国際都市創造会議 山手まちづくり構想立案 UDM 通巻 3 号 川辺公園親水広場整備計画 第 2 回横浜アーバンデザイン国際コンペ 横浜都市デザインのテーマ ( 抜粋 ) ・新田→開港都市→貿易都市 ( 日本大通、赤レンガ倉庫 ) ・関東大震災、横浜大空襲、米 軍接収という3つの被災からの 復興 ( 山下公園、防火帯建築 ) 都市づくり構想 (1960 年代後半 ~) →3 本柱の基本戦略 ・「コ ン ト ロ ー ル」に よ る 法 制 度の整備 ・6大事業による「プロジェク ト」型の骨格づくり ・アーバンデザイン手法による 魅力ある良好な都市の形成 公共空間の整備 (1960 年代 ~) →行政主導で公共空間の即効的 整備による都市空間の質の向 上、周辺への景観誘導と調整 ★くすのき広場 インハウスによる整備 ★日本大通り オープンカフェなどの仕組みづ くり 歴史を生かしたまちづくり (1970 年代 ~) →横浜開港以来の歴史的建造物 をまちづくりに活かす ★歴史を生かしたまちづくり要綱 歴史的認定建造物認定による助成 ★日本興亜馬車道ビル 歴史的景観保全事業の認定第 1 号 インナーハーバー構想 (1992~) →内港の土地利用転換による  リング状の都心空間の形成 ★ヨコハマ・アーバンリング展 8 人 の 建 築 家・芸 術 家 に よ る 21 世紀都市の提案 ※参考文献 ・「アーバンデザイナー北沢猛」(BankART1929) ・野原先生作成資料「横浜都市デザイン論の系譜と変遷」 ・横浜市資料「横浜の都市デザイン」 ( 東大時代 ) 1997 東京大学大学院助教授 外交官の家移築復元 1998 第 2 回ヨコハマ都市デザインフォーラム企画委員 1999 横浜まちづくり倶楽部副会長東京ビジョン研究会 2000 UDM・会長 2001 横浜元町第 3 期まちづくり基本計画 2002 横浜市参与    横浜市文化芸術・観光振興による都心部 活性化委員会委員長 『明日の都市づくり』日端康雄・北沢猛編著 『都市のデザインマネジメント-新しい 公共体が再編するアメリカ諸都市』編著 2003 横浜市都市ビジョン研究会顧問 横浜都心部における都心機能のあり方 検討委員会副委員長 工 学 系 研 究 科 都 市 工 学 専 攻 都 市 デ ザ イ ン 研 究 室 2004 横浜市 ( 仮称 ) ナショナルアートパーク 構想推進委員会委員長 横浜市都市美対策審議会委員 ★BankART1929 オープン ★東京大学 21 世紀 COE「京浜臨海部再生ア     クションスタディ」コーディネーター 2005 東京大学大学院教授 2006 NPO 法人アーバンデザイン研究体理事長 日本土木学会デザイン賞特別賞    ( 横浜市における一連の都市デザイン ) 2007 横浜市創造都市横浜推進委員会副委員長 舞鶴プロジェクト ( 舞鶴イーストハーバー    構想策定委員長、赤れんがパーク、デザイ ン計画策定委員長 ) 旧モーガン邸被災状況調査検討委員会      ( 財 ) 日本ナショナル・トラスト副委員長 2008 UDCY 横浜アーバンデザイン研究機構代表 横浜市都心臨海部・インナーハーバー    整備構想懇談会委員 2009 横浜市インナーハーバー検討委員会副委員長 象の鼻パークオープン 横浜クリエイティブシティ国際会議 2009 アーバンデザインセンター会議 新 領 域 創 成 科 学 研 究 科 社 会 文 化 環 境 専 攻 空 間 計 画 研 究 室 1991 1992 1993 1994 1995 1996 第 3 回横浜アーバンデザイン国際コンペ『都市の記憶 ポートサイド水際公園設計コンペ ・近代建築編』 ★ヨコハマ・アーバンリング展 UDM 通巻 4 号 課 横 浜 ★東京大学 COE「京浜臨海部 再生アクションスタディ」 () 第 1 回ヨコハマ都市デザインフォーラム 長市 補建 イタリア山庭園・ブラフ 18 番館一般公開兼 金沢ハイテクセンター・金沢広場 阪横神浜淡コモ路ン大震ズ災策応定『援の都業発市想務デとザ展イ開ン』編横都市 著浜 そ 横 浜 企 画 局 技 術 長屋門公園 ( 旧大岡家屋長門 ) 旧第一銀行横浜支店曳家事業 ★日本大通り再整備構想策定 『都市の記憶・近代建築Ⅱ』 デ ザ イ ン 室 長 市 都 市 計 画 局 審 査 担 当 課 長 横 浜 建 築 局 技 術 管 理 担 当 課 長 佐 企 画 係 長 築 局 企 画 管 理 課 文化芸術創造都市構想 (2004~) クリエイティブシティ・ヨコハマ →歴史的建造物を活用した  「創造界隈拠点」の形成 ★BankART1929 歴史的建造物の創造活動拠点活 用及びアセットマネジメント 8

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横浜交流まちあるき Stroll through the Yokohama Minato Mirai 21 with YNU Students  この度、野原先生と横浜国立大学の学生さんたちにご案内していただき、横浜の都市デザインをたどるまちあるきを開催しました。都市デザイン 研究室からは修士&博士の学生と OB が参加し、さらに横浜国立大学・都市計画研究室からも修士&学部の学生が大勢参加してくださったため、総 勢約 20 名による大規模な、そして初めての (?) 研究室交流まちあるきとなりました。都市デザイン研究室側の学生の中には横浜をあまりよく知ら ないメンバーも多かったため、また、慣れているメンバーにとっても詳しく説明していただけたので、非常に有意義なまちあるきになったかと思い ます。  さて、横浜の都市デザインは前ページの通り非常に大きなビジョンの元で動いていますが、人間のスケールでは様々なデザインの工夫がなされて います。そこで、今回は横浜を歩いてみて見えてきた横浜の姿をお送りします! ( 編集:M1 神谷 ) ◀横浜アイランドタワー (YCC 横浜創造都市センター )-③  正面の部分は旧横浜銀行本店別館の一部を高層ビル建設時  に曳家して組み込んだもの。この部分は普段はカフェです  が現代アートスペースとして展示活動などが時々行われま  す。2 階テラスでは北沢先生がよく煙草を吸っていたとか !? 創造界隈拠点 歴史的建造物を利用した創造界隈拠点です!! ▲万国橋 SOKO-② 昔の倉庫をリノベーション。クリエイ ターやアートスクール等が活動する。 建築家の山本理顕さんやセグウェイの 事務所が入っています BUKATSUDO-①▶ ランドマークタワー建設時にレンガを 分解して再度組みなおされたドック ヤードガーデン ( 三菱造船所跡地 )。 その中にある大人の日常を豊かにする ためのシェアスペース。落ち着いた素 敵な雰囲気です ◀Archiship Library & Cafe-⑥ 防火帯建築内の飯田善彦建築工房。 1 階はブックカフェ。学生は 1 回 200 円 ( 飲み物付 )。建築関連の本がたく さん ! たまにイベントやってます ▼▶防火帯建築 の種類は様々。 不規則なスパ ン、独特な色、 etc。個性が出 ています !!   10 時々現れる 創造界隈拠点 や防火帯建築 荘厳な外観の元 横浜正金銀行本店 ▶神奈川県立歴史     博物館 -④   ◀▼ストリート ファニチャーなど の細やかな意匠 低層部は、旧川崎 銀行横浜支店の外 壁。不思議な外観 です ▼損保ジャパン 日本興和横浜 馬車道ビル -⑤ まちづくり協定で建物・金具の色彩 や照明や広告について細かく定めて います。また、壁面後退してストリー トファニチャーを用いるなど、人の ために設えています 防火帯として明治時代に整備された、幅 員約 40m のこの通り。沿道のお店のファ サード・広い歩道・座れる柵・オープン カフェなど人が留まるための工夫がたく さん !  馬車道 PM 04:00 日本大通り PM 04:30

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まちあるきの一日 横浜国立大学での野原先生取材後 横浜の都市デザインをテーマとした まちあるきにでかけました ▼改修後の野外音楽堂ではしゃぐメンバー  どこも緑いっぱいのキャンパスです 取材では記事 ▶ に書ききれな いほど色々な エピソードを お話していた だきました ▲ 横国の春の学園祭 「清陵祭」でした 横浜国立大学着 AM 10:30 みなとみらい ▶ 駅で横国の学 生さんたちと 合流。総勢約 20 人で出発! ぞろぞろ歩く ◀先生の学生時代の  設計課題を見せて  いただきました  (立面図がすごい) 野原先生取材 AM 11:00 ◀広い所で野原先生  や横国生に場所に  ついて説明してい  ただきます みなとみらい駅 PM 02:00 ◀ベンチの整備は大変な ので、「座ることがで きる柵」を設置 ァ り 0 2016/6/4 くすのき広場にて 改めて横浜のまちを歩くというとき、約 4 年住み慣れ親し んだ場所についていかに自分自身のことばで説明できない か再確認し、刺激を頂くことができました。楽しい会話、 きれいな街並み、美味しいビールととても充実した休日と なりました、ありがとうございます !( 横国 M1 森本舞香 ) 横浜に対して中華街と赤レンガと海という印象しかなかっ たので、横浜の都市デザインの蓄積を実際に体感できたこ とはとても勉強になりました。今回知った研究室の先達の 言葉や思いをしっかり心に留めて、今後の大学院生活を過 ごしたいと思います。( 都市デザイン研 M1 田中雄大 ) 北沢先生の存在が都市工への玄関だった私にとって、プロ ジェクト胎動期からの先生の足跡を修士メンバーと一緒に たどることができたことは、とても有意義かつ初心に立ち 返る機会になりました。横浜国大の皆さんとは、北沢先生 の DNA を共に受け継ぐ研究室として、今後もさまざまな 機会に交流できたらと思っています。 ( 都市デザイン研 D1 土井祥子 ) ◀風が強い曇天 の日でもゆっ くりする人が 大勢いまし た。普段はパ ラソルを広げ ます ▲ たくさん歩き回った後はみんなで懇親会! 地元食材使用の素敵なお店でした! (しかも嬉しい歌のサプライズ付き) 横浜ビールもご飯もおいしかったです 懇親会 @ 関内 PM 06:00 編集後記 神谷 安里沙 まちあるきの企画調整と案内をして下さった野原先生と横国の研究 室のみなさん、そして社会人でありながら参加して下さった OB の 高橋さん、中島さん。本当にありがとうございました。私が横国か らこちらの研究室に進学して三か月が過ぎました。まちあるきの時 は自分の立場がよくわからず、どちらの側にいるべきかと行ったり 来たりふらふらしてしまいましたが、久々に横国の先生やみんなと 会えて嬉しかったです。同時に今回に備えて横浜について勉強した 結果、横浜の大学にいたのに、横浜を歴史を含めて体系的に理解し ていなかったと気づかされましたが、新しいことを知る度に横浜は 面白くなるとも感じました。ただ、その魅力をまとめるのは非常に 難しかったです。これからは、横浜に限りませんが、言葉やこうい ったマガジンなどで自分が感じる魅力をもっと上手く表現して発信 していきたいと思います。 11

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