atafuta198

 

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atafuta

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アピア 45 年・戦後 70 年記念寄稿 22 才の手記・伊東哲男 戦後 25 年を迎えた 1970 年 5 月、 渋谷にアピアの前身 SPECE LAB HAIR が OPEN した。 その日は、 1945 年 ( 昭和 20 年 ) 8 月 15 日正午。 昭和天皇は日本がポツダム宣 言を受諾し降伏することを玉音放送で国民に伝えた。 玉音とは 「天皇のお 声」 という意味。 といっても生放送ではなくレコードに録音されたものを 流したのであった。 天皇の声が電波に乗るのは初めての事。 前日の 14 日と 当日の朝のニュースで 「天皇自らの声で国民に重要な発表がある」 と伝え くなるかもしれない。 しかし伝えたい気持ちは薄れていくものだ。 そ の日の決断がなされた経過は、 おそらく、 、 、 約5ヶ月ほどさかのぼる。 3 月 26 日、 沖縄。 アメリカ軍による上陸作戦が開始された。 6 月 23 日 に終了するまでの 3 ヶ月間に予想を越える抵抗に遭い、 両軍及び民間 人も合わせてなんと 20 万人もの戦没者を出す凄まじい戦いとなった。 られ、 国民がもれなく放送を聴けるように指令され手配されたという。 正午、 これを見てアメリカの大統領・トルーマンは本土上陸をすれば双方 全国民が皇居の方向にこうべを垂れ聴き入った。 視聴率でいえば限りなく 100%に近かったであろう。 レコードの音声とは誰もが思わず、 天皇がマイ クの前で国民に話しかけていると真剣に聴き入っていた。 しかし、 当時の 劣悪な放送技術では地域によってはノイズがひどく、 かなり聞き取りにく かったらしい。 さらに難解な漢語が多く何を言っているのか理解出来な かった国民が多かったという。 唯一 「・ ・ ・堪えがたきを堪え、 忍びがたきを 忍び・ ・ ・」 この断片はよく理解できたという。 あとは 5 分の玉音放送の前後 の雰囲気や解説で日本の敗戦を知ったらしい。 初めて聴く天皇の声、 口に は出さなくとも 「これ本当に天皇なの?」 「本当に日本は負けたの?」 と思っ た人もいたことだろう。 声を聴いたこともないのに 「天皇陛下、 万歳!!」 といって散っていった多くの若い特攻たちがいたことにボクは戸惑う が、 、 、 。 だからこそこれ以上戦争を続け、 軍部のいう 「・ ・ ・生きて虜囚の辱 めを受けず・ ・ ・」 との戦陣訓のように、 最後の 1 兵まで負けて生き延びるこ に多大な犠牲者を出すことになるだろうと、 出来ればそれは回避した いとイギリス・中国と協議、 7 月 26 日に日本に無条件降伏を求めてポ ツダム宣言を発した。 しかし徹底抗戦をかざす日本の軍部を降伏させ る必要があり、 新型爆弾・原爆が 8 月 6 日広島、 8 月 9 日長崎に投下さ れ人類史上経験したことのない惨状を招いた。 これを受け、 昭和天皇 はポツダム宣言を受け入れ、 降伏し戦争の終結を決断するに至ったの である。 そして9月2日戦艦ミズーリー号の艦上でポツダム宣言に調印、 4 年に及ぶ世界大戦は終結した。 その日から 25 年、 日本は武装解除さ れ戦争と再軍備は憲法 9 条により否定され、 平和的責任ある政府によ り、 課された戦争の賠償を償うべく経済復興の道を歩み始めた。 1951 年、 サンフランシスコ講和条約が連合国と日本の間で結ばれ、 沖縄と 小笠原以外の主権が日本に返還されたのはボクが 3 歳の時のことで ある。 子供のころ目にしたアメリカの進駐軍の姿や兵舎は日本が再軍 とを許さない本土決戦をしたなら、 日本は確実に滅びる、 それだけは避けて、 備をせず平和憲法を遵守する道を歩み始めたのを見届けると姿を消 降伏しても国体だけは護持できるようにと決断した。 その事をすでに 4 年 した。 代わりに 1960 年から日米安全保障条約が結ばれ、 日本とアジア 間の戦争で多くの犠牲を払った国民に自らの声で伝えたかったのであろう。 の平和を守るために進駐軍から米軍基地へ移行した。 横須賀、 厚木、 横 録音は前日の深夜、 宮内省においてなされた。 日本放送協会から 5 人のエン ジニアと 3 人の幹部が派遣された。 日本電気音響 ( 後のデノン ) の円盤録音 機 2 台、 予備も 2 台。 アルミにセルロースでコーティングされたアセテート SP 盤 ( マスターの金型を作る前の試聴盤としてよく利用された ) は一枚で 3 分しか録音できず、 2 枚にわたり 5 分間の世紀の玉音放送が録音されたと いう。 テイクは2回。 1 度目のテイクを試聴された昭和天皇が声が低すぎた と反省?されたとか。 これから右も左も真っ暗闇の話をするのに、 暗すぎ てはこれを聴いて自決者が多数出てしまうと考えられたのだろう ( しかし 自決者は少なからずいた )。 KEY を上げて 「戦争が終わるんだ」 という希望 のほうを強調したかったのだろうとボクは想像する。 ところが玉音放送で 初めて昭和天皇の声を聴いた国民は天皇というカリスマの存在の KEY の 高さに違和感を感じたかも知れない。 さらに 2 回目のテイクを聴いた昭和 天皇は接続詞が抜けているのに気づき 「もう一回!!」 と、 しかしすでに午 前 0 時を回っていた。 総裁の下村宏がこれをご辞退し OK、 録音が完了した そうだ。 おそらく正しい決断であったろう。 テイクを重ねれば間違いは無 田、 座間へと。 そして、 2年前の 1968 年に小笠原諸島が返還され、 2年 後にはやっと沖縄が返還されることが決まった。 基地はそのままだが。 25 年は長くない、 焼け跡となった首都東京が復旧・復興し経済を立て 直し、 日本が戦争中に侵略し多大な傷跡を残した近隣諸国にたいする 賠償責任を支払うためにも、 さらなる経済成長をめざした。 政治家の 中には、 早く賠償金を支払い戦争責任を果たし、 敗戦と戦犯のトラウ マから解放され日本人の誇りを取り戻し、 再び強い日本を作り上げよ うと考える者も多かった。 だからボク達は日本が再び軍国主義の道を 歩むことのないように敏感であった。 しかし、 今度は軍備ではなく経 済侵略であった。 その先兵となったのは商社であった。 昭和の初めは 1 ドル 4 円だったが現在は 1 ドル 360 円という超円安。 それでも資源 のない日本は頑張った。 世界を駆け回り木を伐採し化石燃料や資源を 掘りまくり、 魚や海洋資源もゴッソリ、 そして日本の安く勤勉で器用 な労働力を駆使して商品化して輸出し外貨を貯め込んでいった。 春に なると上野駅に集団就職してくる中・高校を卒業した若者で溢れる。

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JAPAN ブランドを底辺で支える安い労働力だ。 彼らを待っているの は劣悪な労働条件と生活環境だった。 海外では容赦のない日本の商 社マンが通ったあとには何も無くなった。 生き馬の目までくり抜い ていくと恐れられた。 大量生産、 大量消費を加速、 マスコミを使いヒッ トラーの演説のように、 あるいは玉音放送のように国民を煽った。 電 通・博報堂といった広告代理店が時間を刈るブローカーのように媒 体を支配し、 デザイナーは詐欺商法の手先のようになっていった。 1964 年の東京オリンピックを機にさらに経済成長は加速、 良い大学 から良い就職へ、 それが幸せの近道とばかりにサラリーマン人口が急 増していった。 25 年では早すぎたのかも、 焼け跡となった日本がゼロ から復興するにはあまりにも急ぎすぎた。 日本の商社の手法はやが て世界の手本となり、 森が減少し、 化石燃料で地球温暖化の遠因とな り自然破壊がすすんだ。 さらに経済成長の裏側で多くの犠牲が生ま れた。 公害である。 利益優先の企業が有害物質を排水から垂れ流し、 海も、 河もヘドロ、 有機水銀による熊本の水俣病、 新潟の第 2 水俣病が 発生した。 工業地帯のコンビナートの煙突からは大気汚染、 四日市ぜ んそくを生み多くの人々を苦しめた。 車の排気ガスから光化学スモッ グが発生。 食品に混入事件も相次いだ。 カネミ油症事件、 森永ヒ素ミ ルク事件、 サリドマイド・スモン薬害。 多摩川からも魚が姿を消した。 企業ばかりではない。 昔は米のとぎ汁は庭の草木に与えた。 マンショ ンが増え直接排水口へ、 河が栄養過多になってしまった。 合成洗剤の 表面活性剤も都市化の進んだ河を覆った。 これでは魚は住めない。 ボ ク等が口にするほとんどの食品が添加物漬けになった。 食品添加物 の種類も続々と開発され膨大な数になり生鮮物や魚介類まで及んだ。 漂白剤でさらされて断面の真っ白な山芋、 着色されたタラコは酸化防 止剤を始め 10 数種類の添加物が、 魚河岸から出荷される魚介類にト ラックに積み込まれる前に振りかけられる氷塊にも溶けにくくする 添加物が、 、 、 食べられない氷なのに魚たちに染み込んでしまう。 何も 知らない魚屋のオヤジさんは暑い店頭で 「エー、 いらっしゃい、 サン マ安いよー」 ってあの氷をかじっている。 食パンにはふっくらとさせ るために中国人の頭髪を輸入して抽出したシスチンが!ソーセージ や練り物など加工食品に至ってはどれほどの添加物が入っているの か見当も付かない。 炎天下、 冷蔵設備もないところでダンボールに 入ったまま売られている。 驚くべき事には、 それらが腐っていないこ とだ。 それを食べて育ってきた僕等の躰はまさに防腐剤漬けに、 「きっ と死んでも死体は腐らないよ」 とささやかれた。 最近では食品添加物 の中には発がん性のあるものが指摘され始めている。 食品の中に虫 や金属片などが混入している事は良くあることであった。 それらは 発がん性のあるものではないし、メーカーに言えば新しいものとすぐ 交換してくれた。 それで済んでいた。 注意しているけど、 万一、 商品に 問題があればすぐにお取り替えします、 と書いてあるのだから。 クー ラーもない中小の食品工場では窓を開けたまま作業をしており、 注意 しているけど虫が飛んできたり、 ゴキブリが飛び込んだりあり得る事 だった。 野良犬や野良猫を追いかけ回して捕まえている焼き鳥屋の オヤジもよく見かけた。 ボク等は得体の知れないものを食べて育っ てきたのだ。 それでもボクは 22 歳になった。 玉音放送のあったその日 から 25 年が流れた。 「戦争が終わってボク等は生まれた。 戦争を知ら ずにボク等は育った」 のだ。 酒場で飲んでいると長髪のボクはオヤジの客 によく絡まれた。 「オマエ達は戦争を知らないだろ!俺たちは、 この手で、 こ うして首を絞めて殺して生きてきたんだ」 と、 その手をボクの首に巻き付 け一瞬ホントに絞められるのかと思った。 オヤジは涙ぐみながらその手を ゆるめると 「悪かったなぁ」 と言い残し、 カウンターにポンと 5 千円札を置 き立ち去っていった。 身なりのいい初老の紳士であった。 そうさ、 唄われる までもなくボク等は 「戦争を知らない子供達」 なのだった。 1970 年 5 月、 渋 谷にアピアの前身・SPACE LAB HAIR が OPEN した。 ジャニスが死んだ! ジミヘンも死んだ!三島も死んだ!エノケンも、 円谷英二も内田叶夢も死 んだ!1ドル 360 円、 大卒初任給 4 万 961 円、 3 年前に発売されたシュアー のマイク 58 は大卒初任給並み、 とても高くて手に入らない。 海外旅行はボ ク等には夢のまた夢、 だからトリスを飲んでハワイへ行こうが流行った。 年間一人 1 回限りの制限も撤廃せれ、 持ち出しは一回 500 ドル以内なら自 由に旅行が出来るようになった。 少しずつ金持ちが物見遊山に出かけるよ うになってきた。 お土産は決まってジョニ黒かジョニ赤だった。 なにしろ 日本では輸入物は高かったから。 ほとんど飲まれる事はなくいつまでも部 屋の飾りとなった。 来客はそれを見て 「ワー、 外国ヘイカレタンデスカ!」 レコードもそうだ、 輸入物は 4〜5 千円はした。 月収 3 万少々ではとても高 くて買えないので、 安く聴けるジャズ喫茶が流行った。 ラジオの深夜放送 もそうだ。 若者のサブカルチャーの発信基地だった。 とくに海外の音楽情 報などは人気があった。 深夜放送はスポンサーがほとんどつかなかったの で、 製作予算が少なくアナウンサー等が好き勝手にしゃべりまくった。 硬 い口調ではなく友達のように話しかけてきた。 それが受けた。 ヒットソン グよりも自分の好みを優先させた。 新しいと感じるもの、 おもしろいもの が取り上げられ人気となった。 その日から 25 年が、 、 、 いま、 ボク達は、 この 国は、 どこへ向かっているのか?人間は、 ボク達一人々の人間は、 路上に転 がった石ころに過ぎないのか?日本列島が改造され巨大化する社会と経済 成長の泥靴がその路を行進して行く。 ネェ君、 踏みつけられたまま 「痛い! 」 と発することも出来ないのか! 「痛かったら、 痛いと言え!」 その泥靴の 下にあるのは 「俺だよ、 俺を踏むなよ!」 ボク達は戦後すぐに生まれたベ ビーブーマーである。 1 クラス 90 人ぐらいですし詰め。 それが 10 数クラス あった。 1 学年 1000 人近くいた。 ほとんど名前も知らない。 校舎は入れきれ ず、 午前中に行って給食を食べて帰る班と、 午後から登校する班に分かれた。 二部授業だ。 何をするにも施設は足りなかった。 小学校の時ある教師は 「オ マエ達は、 死ぬまで競争だ。 墓場まで競争だ。 負ければ墓にも入れないぞ! 」 と言われた。 また5年生の時の女教師は小声で 「あなた達も大人になったら、 あのお兄さんやお姉さんのようになるんですよ」 と 60 年安保粉砕!と叫び 国会議事堂へ詰めかけた全学連を指して言った。 どちらにしても学校でま ともな勉強を出来る環境ではなかった。 だから何でも自主的に勉強するよ うになった。 何が正しくて何が間違っているのか、 自分で考えた。 ボク等は まだ 22 歳の若輩者、 まだなんの力も持たない。 しかし、 人数は多いぞ。 あと 20 年、 30 年、 40 年と過ぎたらボク等の世代が社会の中心となり実権を握る ようになる。 その日が来たら、 日本を変える事が出来るだろう。 今の平和と 民主主義なんて権力者の罠でしかない。 主権が国民にあるように見せかけ ているだけだから。 きっと戦後 70 年を迎える頃には、 日本も変わるだろ う!呑み下す酒の熱い感覚のように、 期待を胸に秘め戦後 25 年目のブログ を閉じることにする。

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