高知県立牧野植物園研究報告 創刊号 04

 
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牧野富太郎記念館 常設展示制作プロジェクトの記録

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やまとぐさ 第 1 号:37 ︲ 64. 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 教育普及課  里見 和彦 はじめに 平成 11 年 (1999) 11 月に牧野富太郎記念館が開館し の気持ちで結ばれ,共に汗を流した. 開館後,筆者をはじめ職員は「世界的な植物園」を目 標に,各部署でひたすら前を向いて進んできた.その甲 斐もあり,牧野富太郎と牧野植物園の知名度は次第に向 上してきているようである.しかしその反面,筆者の例 で言えば,これまで常設展示製作の経緯を振り返り,そ の計画の意図や技術上の問題点などをまわりに伝えるこ とや,記述する努力を怠ってきたように思う. 現在,17 年を経た常設展示は,各所で経年劣化やハー ド面の不具合をかかえており,一部では機器類の撤収も 行われている.そのため,平成 26 年度より 3 ヵ年をか けて,展示の見直しを進めているところである. 今回編集担当者より,常設展示立ち上げの記録の執筆 を依頼されたことを機に,ほぼ 20 年前にはじまる常設 展示製作の経緯と製作者の意図をここにはじめて記録し, 常設展示という日常の風景がいかにして生まれたのかを 書き残したいと思う.そしてこの記録が,展示という仕 事に興味を持つ人に対して何らかの役に立つことができ れば良いと思う. 執筆にあたり,筆者自身が経験してきたことをできる だけ事実に即して記述するため,常設展示完成までの経 緯は,民間の展示設計者という当時の視点で書き,開館 後の経過と今後の方針については,当財団の職員として の立場で書かせていただくこととする. 17 年目に入った. 博物館に相当する屋内展示施設 (図 て, 1,2) を有する植物園は,国内ではきわめて少ない. 牧野富太郎記念館常設展示計画の当時,筆者は東京の 一民間展示デザイナーとして,開館までの約 5 年間,植 物園の担当者 (稲垣典年技監,鴻上泰技監,小松みち主 任,黒岩宣仁主幹) とともに展示の計画から設計,設計 監理を経て平成 11 年 3 月の展示工事引渡しまでを担当 (財) 高知県牧野記念財団の した.その後,同年 6 月に 学芸員採用試験に応募し,牧野植物園の学芸職員として 今日まで,主に展示業務に携わってきた. どのような施設の建設過程においても言えることであ るが,ひとたび完成すれば,その日からそれが日常の風 景になる.そしてその風景がどのような経緯で作られた のかが語られることは少ない. 牧野富太郎記念館の立ち上げには,建築をはじめ,設 備,造園,展示,用地の買収など,数え切れないほど多 くの人々がかかわっている.筆者が担当した展示だけに 限っても,展示計画,デザイン,設計,内装工事,什器 家具製作,照明工事,グラフィック製作,映像製作,シ ステム製作,特殊造形など,業種だけをとってみても多 岐にわたる.それら多分野の関係者たちが「この時代に 牧野富太郎をもう一度世に打ち出すのだ」というひとつ 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 37

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Ann. Makino Bot. Gard. 以下,常設展示完成までの経緯を,1. 常設展示完成に 至る経過と展示製作プロジェクトの特徴,2. 計画段階 の試行錯誤,3. 製作段階の記録という流れで書き,最 後に 4. 開館後の経過と今後の改修の方針を添えて締め くくることとする. 1.常設展示完成に至る経過と展示製作プロジェク トの特徴 ■展示製作の経過 (1993) , 牧野植物園整備計画構想立案およ ・平成 5 年 び基礎調査. (1994) , 牧野植物園全体基本計画策定. ・平成 6 年 (1995)3 月, 牧野博士記念館 (仮称) 建築 ・平成 7 年 基本設計完了. (1996)3 月, 牧野博士記念館 (仮称) 展示 ・平成 8 年 基本設計完了. ・平成 11 年 (1999)3 月 31 日, 展示工事完成.その後 開館準備に入る. ・平成 11 年(1999)11 月 1 日,牧野富太郎記念館開館. ■常設展示製作プロジェクトの特徴 牧野富太郎記念館の常設展示製作プロジェクトの大き な特徴は,建築設計と展示設計とが歩みをそろえて進め られたことにある.現在ではこの進め方は稀とはいえな いが,20 年前は,まず建築側がある程度の展示ボリュー ムを想定して建物を設計し,その後出来上がった箱の中 で展示側が設計を行うという形が一般的であった.この 方法では,途中の設計の見直しによる変更や,設備関係 の工事区分などでの不具合が生じるとともに,建築空間 と展示の乖離が見られ,来館者の一連の展示体験を阻害 することが多い. このため,当プロジェクトでは平成 6 年に始まる内 藤廣建築設計事務所による建築基本設計の段階から,筆 者が内藤設計の外部スタッフとして展示計画を先行させ, 建築設計との調整の中で,展示計画の模索につとめた. これは内藤氏の「建築と展示は一体で考えていくもので あり,建築も造園も,植物園の来園者にとってはすべて . が展示である」 という考えに基づくものであった (図 3 ) 8 月, 牧野博士記念館 (仮称) 展示 実施設計完了. 9 月, 牧野博士記念館 (仮称) 建築 実施設計完了. (1997)9 月, 展示工事入札.株式会社丹青 ・平成 9 年 社に落札. 10 月, 展示製作開始. (1998) 12 月, 展示現場設置工事開始. ・平成 10 年 38 やまとぐさ

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2.計画段階の試行錯誤<おもに平成 6 年 (1994) 4 月~ 平成 9 年 (1997) 9 月> ■展示の方針 (1994) ,牧野植物園が作成した牧野博士記 平成 6 年 念館 (仮称) 基本計画には,展示について以下のように 書かれてある. 「新しい記念館は,人間牧野富太郎の生きざまを通し て,自然の大切さを認識し,植物とともに生きる楽しさ を伝える」 「新しい記念館は,植物に関するあらゆることが学べ る博物館と位置づけし,展示は単なる室内展示に終わら ず,野外の植栽および植物園の諸活動とも,有機的に連 動する」 同計画書には,この方針を受けて,以下の展示項目案 がつづられていた. ・ 「人間牧野富太郎の業績を伝える展示」 (後に「牧野富 太郎の生涯」と命名) ・ 「植物について学べる展示」 (後に 「植物の世界」 と命名) ・ 「植物画を専門に展示する美術館的展示」 (後に「植物 画ギャラリー」と命名) ・ 「企画展示室」 ・ 「五台山の自然・歴史を紹介する展示」 (後に「五台山 展示室」と命名) ■展示の基本的な考え方の検討~展示は植物とのふれあ いを取り持つ仲介者 ,植物園の展示担当窓 展示計画の初期 (平成 6 年頃) 口は鴻上泰技監と小松みち主任であった.鴻上技監は植 物全般を担当し,国内外の植物園,博物館や関係者への 調査を通していろいろなアイデアを暖めていた.また, 牧野文庫司書である小松主任は牧野博士の原稿や書簡類, 植物画に対して,きわめて詳細な調査を進めており,牧 野博士を世に打ち出す一定の方向性を見出しつつあった. 筆者は東京・高知間を往復しながら,この両者と打ち 合わせを重ねて,建築との調整のもとに展示計画を進め ていった.足しげく通った展示打ち合わせの中で,徐々 に見えてきた展示の方向性は次のようなものだった. この記念館は,単独の博物館ではなく,植物園という 生き物をあつかう特別な場所に建てられる施設である. 牧野植物園にとって,最も重要な展示物は園内の植物 である.おそらく牧野博士もそう考えることだろう.そ れゆえに,室内展示はその植物と来館者とのふれあいを 取り持つ仲介者と位置づけようと考えた. 展示館の展示は,植物園全体を散策する見学者の導線 を想定し,一連の流れで,展示体験をしてもらえるよう に計画していった. まず展示館の見学者には, 「牧野富太郎の生涯」で, 博士のひたむきな植物研究の足跡や,観察力の極致とも いえる植物図を間近に見ることで,一つのことに情熱を 打ち込んで生きた人間の本質にふれてもらう.次に「植 物の世界」で,その博士が研究した植物とは,いったい どのような生き物なのかを体験してもらう.次に「植物 画ギャラリー」で科学図としての植物画を見てもらう. さらに「企画展示室」で人と植物のかかわりを見てもら い,その後,本格的に園地を散策して実際の植物を楽し んでもらうという構成を考えた.そして,常設展示全体 を通して「観察する姿勢を養う」というテーマにより, 植物への理解と興味喚起を促すことを方針とした. しかしこの時点ではまだ,建築の形が決定しておらず, 立地の条件から来る制約や法規の遵守への対応などで場 所や形が日々変化していた.そのため展示計画は,建築 がどのような形になろうとも,変わりようのない核心を 模索するような状況であった. 建築と展示とが歩みをそろえて進むという言葉は耳あ たりがよいが,建築の立地が定まらないうちに展示を組 み立てることはできず,どうしても建築設計の後追いで 展示をあわせていくしかない.それでもこれまでどこに もなかった展示を作ろうと,建築の変化に呼応するべく . 展示案を描き変えていった (図 4 , 5 , 6 , 7 ) 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 39

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Ann. Makino Bot. Gard. ろん高知県ではすべてが始めての試みであったし,逆 に言えば,博物館設立の経験の少ない高知県だからこ そ,前例にとらわれずにできたのだともいえる. ・展示映像制作のため,高知の山野に生育する自生の植 物の動画撮影と,スタジオでの牧野博士ゆかりの植 物の発芽,成長,開花,結実などの微速度撮影を約 3 年かけて徹底的に行ったことも展示の独自性といえる. ・常設展示は牧野博士の貴重な資料にじっくりと対峙す ることのできる,けれんみのないケース中心のオーソ ドックスな「牧野富太郎の生涯」展示と,植物を遊び ながら体験できる可変性を持たせた動きのある「植物 の世界」展示との対比を際立たせるようにした. ■常設展示の独自性について ・展示計画段階の当初より, 植物園の担当者からは, 「大 手展示会社による手馴れたような展示にはしないでほ しい」と,ことあるごとに言われた. 「洗練されすぎ ていないもの」 , 「規格品でないもの」 , 「ここにしかな いようなものを」 , と強く要望された.それは結果的に, 地域の伝統技術を展示に生かすこと (土佐漆喰,手す き和紙など) や,一般的には考えられないほどの時間 や手間がかけられたものづくり (紙布,微速度撮影な ど) や,アーティストによる一品物の作品を展示にと りこむ (田窪氏,ムットーニ氏) などの展開へとつな がっていった.なにか尋常ではないマニアックな熱の ある表現が,牧野富太郎という桁外れの学者をあらわ すのにふさわしいのではないかということを展示デザ インのスタッフは常に考え続けた. ・建築と展示がそろって計画を進めていくという取り組 みは,当時は前例がなく,植物園の中に博物館を作る ということも,きわめてまれなケースであった.もち し ふ ■展示館常設展示室の展示構成 「牧野富太郎の生涯」展示室   生涯を植物の研究と普及にかけた牧野博士の人生は波 乱に富み,その精力的な活動は一個の人間のなしうる可 能性の限界に挑戦しているかのように思える.牧野文庫 にはその博士の業績や人間性を映し出す一級品の資料が 有り余るほど収蔵されており,探究心を持って訪れる者 には博士の精神の片鱗を語りかけてくれる. 「牧野富太郎の生涯」展示は,親しみやすく博士の人 生にふれてもらうため,その牧野文庫の資料をいかに選 択し,順序だてて配置して見せるかが課題であった.植 物園の展示担当であった小松主任からレクチャーを受け, 自らも都立図書館や国会図書館などで関連資料を調べた り,牧野家の方たちを訪問して聞き取り調査をしたり, 国内外の植物園,博物館への調査などを通して人間牧野 富太郎に近づいていくというフィールドワークを数年間 続けたが,知れば知るほど人間的な新たな魅力が現れて, 40 やまとぐさ

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ステレオタイプな展示構成では陳腐な展示になりかねな いという危惧が深まっていった. そこで,ある時期から,展示する側が展示する内容に 解釈を挟まず,事実を伝えることに重点を置く素直な展 示にしようと考えた.また,造形で何かを語るようなこ ともせず,シンプルに博士の植物研究の歩みを 4 つの 時代に分けて,それぞれの時代の資料を見せることに徹 しようと考えた.4 つの時代に分けたのは,建築空間か らの制約もあったが,4 つ以上に分散させるのは,展示 の文脈として煩雑すぎるからでもあった. そこで博士の研究の歩みを時系列で「少年期」 「青年 期」 「壮年期」 「晩年」に分け,一連の流れの中で少・青 年期の近代植物学の基礎作りに貢献した学術的な業績に 始まり,壮年期からの大衆指導への方向転換を経て,最 終的に,博士の成果が学術的であり且つ広く大衆に向け られた研究の集大成ともいえる「牧野日本植物図鑑」に 結実するまでの軌跡を,貴重な資料で実証的に伝える展 示構成とした.展示の大部分は完全密閉型のケースによ る展示であるが,パソコンを使った検索システムや博士 をテーマにしたからくり人形やジオラマによる書斎の忠 実な再現などにより,その人生を立体的に見せることを 心がけた. 空間的には,中庭に面した明るい通りにオリエンテー ション映像と書斎再現を配置し,ショートカットの人に は直接ここを通って「植物の世界」へ行けるようにした. そして建物外周側の最も天井が低く,奥まった暗い場 所を牧野博士の少年期から晩年までの研究の成果にふれ てもらう場所とした.そしてその中間の通りを博士の研 究以外の生活面の展示とした. 「庭通り」 「中通り」 「奥 . 通り」というシンプルな配置とした (図 8 ) 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 41

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Ann. Makino Bot. Gard. 「植物の世界」展示室   牧野富太郎の生涯の展示にふれた後,その余韻を持っ て進むと,目の前に一転大きな空間が広がり,引き続き 牧野博士の「大衆に向けた教育普及活動」をそのまま展 示にしたような世界にいざなわれるという流れとした. ここには一話完結の植物に関する展示が配置され,来館 者はそれぞれ興味をもった展示を自由に楽しむという計 画であった. こ の 展 示 に 関 し て は, 実 施 設 計 完 了 後 の 平 成 9 年 を介在させる半強制導線とし,1.植物の生殖器官とし 茎, ての花, 果実, 種子, 芽生え.2.成長器官としての葉, 根の展示.3.土佐の自然 4.人と植物 5.映像によ る「牧野植物教室」という一連の流れの中で紹介してい く展示ストーリーとした. 導入部の「花の結婚」は,牧野博士が植物を分かりや すく伝えるためによく用いた擬人化による話法を展示に 置き換えて,植物が昆虫など他の生き物と共生して生命 を伝えていく生態を表現した.西日本に多く見られ,受 粉と種子散布に昆虫とのかかわりがみられることから, ヒメイカリソウをテーマに展開し,それに続く展示は植 物の形を遊びながら認識する展示や観察をうながす植物 のパズルなど,全体にハンズオン展示を多用して遊びな がら植物に近づいていく展示とした. 9 月,鴻上技監より担当を引き継いだ黒岩主幹 (1997) の意向により,以下のように設計変更をして,内容をさ . らに充実化させていった (図 9 ) 実施設計時の意図であった完全な自由導線では,来館 者がどのような順路で見るべきかが不明で混乱するとい う危惧があり,ランダムな配置の中にも,緩やかな導線 42 やまとぐさ

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■展示設計アドバイザーとの協議と助言 (1996) ,展示実施設計のため,高知県文化 平成 8 年 環境部自然保護課より依頼を受けた 5 名の専門家と打 ち合わせを重ね,その意見を取りまとめて展示に反映さ せた. (詳細内容は「展示計画助言者の意見とそれに対 する展示の考え方に関する報告書」を参照の事) ・小山鐵夫氏 (植物分類学・当時日本大学教授.後に牧 野植物園園長) からは,牧野博士の研究や人となりの 他, 「植物の世界」の展示方法の詳細に至るまで,細 かく指導してもらい,展示に反映させることができた. 特に「植物の世界」は,牧野博士が一般の人に植物の 魅力を楽しく伝えたように,遊びを通して,子どもが 植物に興味が持てるような展示として,植物への入り . 口にすると良いとの意見であった (図 10) 的な運営計画が検討されるのは,平成 10 (1998) 年の, 牧野植物園整備事業運営検討委員会の発足まで待たな ければならなかった. ・荒俣宏氏 (文筆家・博物学者) からは,牧野博士の魅 力とその打ち出し方や,植物画の魅力など,興味深い 助言をしていただいた.南方熊楠は奇人変人的要素や 研究の幅の広さがあり,一般の人にアピールしやすい が,牧野博士は,植物というものから離れると紹介の しようがない.今あえて博士の魅力を打ち出すとした ら, 「自分の好きな植物学をやり通して人生を豊かに した幸せな人」という面をアピールし,この展示を通 して, 「地球環境を考えるのに最も身近で有効な方法 は植物と仲良くなることだよ」と気付いてもらうこと ではないかという意見が印象に残った. ・近藤日出男氏(食文化研究家・元土佐高校教諭)は, 鴻上技監の提案による「人と植物」の監修者として, 民俗学的な見地からの助言をいただいた.そして製作 段階では,京都薬科大学付属植物園の後藤勝実氏(故 人) とともに県下をフィールドワークし, 「トチノミ食」 を近藤氏が, 「土佐の民間薬」を後藤氏が担当し,展 示を作ることになった. ■常設展示の空間の考え方~建築との関係において <建築空間に対して展示をどのように構えるか> 展示が建築に寄り添う形が良いのか,展示が独立し建 築に拮抗するのが良いのかという問題は,建築と共に進 んでいく展示設計の中で,常に大きな課題であった. ・磯野直秀氏 (故人・博物学史・当時慶応義塾大学教授) からは,植物研究における図の意味や,牧野文庫の価 値などについて意見をうかがった.なかでも,物をき ちんと観察することの大切さを伝える場所にしてほし いという意見は,まさに牧野博士の研究や植物図が表 していることであり,常設展示全体のテーマも「観察 する目を養う」 こととしていたこともあり, 力をもらっ た気がした. ・鍵岡正謹氏 (当時高知県立美術館館長) からは,展示 計画だけを進めるのでなく,それを調査して研究して いく人員体制と運営計画を早急に進める必要性を示唆 された.これに関しては筆者も危惧しており,この前 から「牧野植物園運営実現化への提案」 年 (平成 7 年) 「牧野植物園事業指針提案書」などの運営計画の試案 を植物園と自然保護課に投げかけていたのだが,具体 基本計画から実施設計にいたる長い時間の中で,さま ざまなアイデアや展示デザインが提案されたが,最終的 には見学者にとって,屋外の園地から建物の中,そして 部屋の中へという一連の体験の流れの中で展示を捉える ことを重視し,有機的な構造を持つ建築との一体化に よって,展示も建築も牧野博士の言葉である「自然の中 に飛び込み,そこから多くのものを学びとろう」という 自然に対する接し方を表現しているような形で構成しよ うと考えた. <外光をいかに処理するか> 「展示の基本的な考え方の検討」でも延べたように, この常設展示では,屋外の植物との連動を重視しており, 展示は園地の植物への架け橋であろうとしている. 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 43

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Ann. Makino Bot. Gard. 通常,博物館の展示空間は,基本的には外光を遮断し た暗室で展開されることが多い.それは,貴重な資料を 紫外線から保護する意味合いや,展示テーマを訴求する ための空間演出には,外界から独立した環境のほうが, 都合が良いなどの理由による. しかし,人生のほとんどの時間を日本の山野で費やし, 身も心も自然と共にあった牧野博士を伝える展示は,屋 外の生きた植物と共にあるべきであり,建築と展示が歩 みをそろえて作っていく意味においても,展示空間と屋 外の植栽には,つながりのある連続性を持たせたかった. そのため,中庭側は木製ガラスサッシとし,室内から 中庭の「博士ゆかりの植物」が望めるようにした.そし て深い庇を通って進入してくる外光をさえぎるための土 壁を二重に建て,その奥のエアタイトケース (完全密閉 による展示ケース) に牧野博士の貴重な資料を展示する .ケースのガラスと照明は紫外線カッ 形とした (図 11) トのものを使用している. <空間固定化の懸念> 屋外との連動を意識し,外光をさえぎる壁を立てた展 示空間は,重厚な趣がある反面,将来の展示改修に不向 きである.この「牧野富太郎の生涯」の展示プランの設 計段階には,県議会議員より展示が空間を固定化しては いないかとの意見が出た. その意見に対しては,牧野博士の生涯を伝える空間は, 資料を保存しながら展示する点や,イメージやムードに 流されない重みのある空間とすることで,牧野博士の業 績の普遍性を浮かび上がらせようとしていること.また, そこから連続して続く「植物の世界」は逆に時代の変化 に合わせてフレキシブルに変えられる開放的な空間にす ることで,二つの持ち味で空間にメリハリを持たせる構 成としているという旨を伝え,理解していただいた. 開館後も, 「牧野富太郎の生涯」の展示に関してはい ろいろな意見が出ている.例えば「展示が普通すぎて面 白くない」 「せっかくの建築の大胆さに対して見せ方が 大人しすぎる」 「牧野博士を表現できていない」などの 意見もいただいた. 展示の計画をはじめてから完成するまでには,5 年と いう時間が経過している.その間,建築費の高騰により 建築工事の入札が不調になり,1年近く塩漬け状態で, プロジェクトが停滞する時期もあった.しかしその間も 常により良いものをと考え続け,植物園の打ち合わせの 要望に応じるままに東京・高知間を幾度も往復した. 考える時間が長くあるということは,その長い時間の 中で色々なアイデアやデザインが生まれてくるが,それ だけふるいにかけられる時間も長いわけであり,さまざ まな条件や制約が新たに生まれ,アイデアの幅は逆に狭 くなっていく.思いつきのアイデアは色あせて消えてい き,最後にはきわめてオーソドックスで必要性の高いも のが残る傾向にある. 博物館の展示デザインの場合,時代を超えて長く愛さ れる展示のしつらえは,作り手側の恣意的なイメージや ムードに流されず,資料の意味を浮かび上がらせる,一 見控えめで自己を主張しない空間であるべきと考えてい る.このようなことを上記の意見の方々には誠意を持っ て伝えるようにしている. 44 やまとぐさ

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■建築の変遷に沿って変わっていく展示プラン ( 3 案) 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 45

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Ann. Makino Bot. Gard. 3.製作段階の記録 <おもに平成 9 年 (1997) 10 月~ 平成 11 年 (1999) 3 月末> 実施設計が完了していても,実際に製作に入り,検証 を重ねるうちに不都合な部分や,より良い考えが生まれ, 設計通りには事が運ばない.常により良い展示にするため に,設計変更を県に承認してもらい,製作を進めていった . (図 12,13,14) 「牧野富太郎の生涯」展示室 ■パソコン検索システム「フィールドワーク・イン・ ジャパン」の製作 牧野博士の全国踏査の跡を検索できるシステムの構築 には膨大な時間がかかった. 全国からの来館者一人ひとりと牧野博士とのつながり を見せることを目的に,小松主任が中心となって,北は 北海道から南は鹿児島県,そして台湾と旧満州までの博 士の行動と関連資料をまとめた.小松主任は博士の日記, 手紙,書籍などを精査し,行動録を県ごとに細かくまと めるとともに,各地の採集植物や,写真,エピソードを . 選び,データ化した (図 15) 情報をまとめるにあたっては,各県の植物園や自然史 博物館,そして植物同好会の方など,多くの植物愛好家 に協力していただいた. ■パソコン検索システム 「牧野式デジタルミュージアム」 の製作 牧野博士は自らの頭脳を「くら」と呼び,面白いうた を詠んでいる. 「頭 脳の中 仕入れの草木 数知れず いく ら賣っても  品切れはせず」 このように,自分の頭の中には,汲めど尽きせぬ知識 があふれており,次から次へ湧いてくると豪語している のだが,ここではその博士の頭脳の中へ侵入して,さま ざまな博士像に迫る映像展示とした. 高知の植物について語る肉声や,戦前の博士の高知市 潮江山の植物採集の画像は貴重な資料とも言える.博士 得意の漫談をアニメ化して見せるなど,ガラスケースの 資料になじめない子どもたちにも興味を持ってもらえる ように構成した. く ら う 46 やまとぐさ

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■「本草学の世界」の展示について 牧野富太郎は,中国を起源とする本草学が日本の近代 化の中で,植物学と薬学へと移行していく時代の結節点 に生まれ,活躍した人物である.日本の近代植物学の泰 斗であるとともに,最後の本草学者でもある.この牧野 博士の学問のルーツとも呼べる本草学を,牧野文庫が誇 る国内有数の和書漢籍により紹介するという,他の植物 園にない牧野植物園の優位性を出す展示として,これを 計画した. 計画当初は,一部屋をこれに当てる予定であったが, 専門研究者が不在であることや,建築空間の中における 優先度の面から縮小し,生涯展示の一角にトピックス的 に配置するように変更した. ■大正時代の 「牧野富太郎転居地図グラフィ ック」 について 「牧野博士は植物研究を続けるために,経済的に破綻 していた」というのは有名な話であるが,その実情を見 た人はない.伝説だけが一人歩きしているように感じた. 小松主任は,博士宛の書簡類の住所が 30 箇所以上あ ること調査し,リスト化していた.富太郎は家賃が払え ず,やむなく借家を転々とするのである.それを実証的 にヴィジュアル化できないかと考え,ある時期の東京の 地図上にその住所を示し,その根拠である博士宛の封筒 やハガキを添えてグラフィック化しようと考えた. 時代と場所の設定には,検討を重ねた.大正末期には 渋谷駅周辺で 4 箇所引っ越しているのであるが,筆者 はまず渋谷区役所の広報課で大正時代の住宅地図を時系 列で 3 種類出してもらい,地図上で博士の住所を探した. 地名は時代によって変わるからである.その地点を現代 の地図上に再度落とし込み,自転車で一軒一軒探してま わった.その時点から 70 年も昔のことであり,当時の ままの住居は一軒も現存していなかったが,地形の起伏 や景観から伝わる空気感や古い路地のたたずまいなどに 往時をしのぶことができた.近隣の古老に牧野博士のこ とや博士が住んでいた関東大震災の頃の界隈のようすな どを聞いてまわった.時代順に住居を訪ねたことで,博 士の引越しの道順が分かった.博士は膨大な書物と標本 を自ら大八車に乗せて運んだと聞く.渋谷は急峻な坂の 多い土地である.大八車での引越しの苦労を肌で感じる ことができた. 結果的には,渋谷へ移る前の文京区小石川近辺の地図 として,グラフィックデザインを仕上げた.ひとつの地 図に 12 通の手紙と住所地点を落とし込んだ. この展示が来館者にどの程度アピールしているかは別 として,常設展示全体の中で,筆者が最も展示として成 . 功したと考えるのはこの展示である (図 16) 博物館の展示とは,資料を効果的に組み替えて配置す ることで,資料のままでは理解できなかったことがらを 理解できるようにすることである. (2002) 12 月 14 日,パリ国立自然 開館後の平成 14 年 史博物館の学芸部長であったジョルジュ・メテリエ氏が, . 飯沼慾斎の顕微鏡の調査で牧野文庫を訪れた (図 17) その際メテリエ氏に当館の常設展示の印象を尋ねたとこ ろ, 「マキノの引越しの地図がよかった」と,一言だけつ ぶやいた.この展示を理解して,その感想を筆者に告げ てくれた彼の言葉は, 今も自分の大きな励みとなっている. 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 47

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Ann. Makino Bot. Gard. ■牧野博士の書斎「繇條書屋」再現プロジェクト 博士の練馬区の自邸跡や佐川町の出生地には博士が暮 した事実という無形の価値がある.そのことが訪れた人 の想像力を刺激して感動を与える.しかし五台山の牧野 植物園にはそれがない.博士が残した貴重な資料が何よ りもここの宝物であるが,興味のない人には伝わりにく い.展示館の中庭には博士が愛したゆかりの植物を植え る計画になっていた.練馬区や佐川町が持つ無形の価値 に見合うものをここに作るとしたら,その庭を眺められ る場所に,きわめて精巧で事実に忠実な博士の書斎を再 . 現することではないかと考えた (図 18) 壮年期から晩年にいたる牧野博士の研究,執筆,描画 の場であった自邸の書斎「繇條書屋」は,調査をしてみ ると時代により,3 種類あることが分かった.都心から の転居当初は二階にあり,これは昭和初期の雑誌に詳細 な記録が残されている.この書斎は本の重みに耐えかね て床が抜けそうになり,その後一階に移った.この二つ (故 めの書斎は戦後まで使われており, 洋画家榑松正利氏 人) の絵画作品「書斎の牧野博士」に描かれており,写 真も数点残されていた.さらに最晩年,少し狭い部屋に 移っており,これは実物がそのまま練馬区立牧野記念庭 園内に残され,観覧に供されている.練馬区と同じもの を作っても意味がないので,図面や記録はないが,絵画 に描かれ,まだかろうじて博士の孫たちの記憶に残って いる二つめの書斎を,再現することにした. 書斎再現にあたっては,書斎のくわしい情報を得るた め,前述の絵画作品で昭和 23 年の日展特選を受賞した 榑松正利氏のアトリエに出向いて,当時の部屋の様子を 伺い,また,岡山に住む博士の孫,西原澄子氏 (故人) か らも数回聞き取りをして,書斎の状況を把握していった. くれまつ ようじょうしょおく 榑松氏の話からは戦後間もない武蔵野の雑木林の中の 小さな部屋の中で,うず高く積みあげられた蔵書の間を 活発に動き回り,一心不乱に研究を続ける白髪の老人の 姿が思い浮かんだ.榑松氏はそのときの印象を, 「積み 上げられた赤や緑色の絢爛たる洋書の海を,美しい白銀 の蝶が飛び回っているかのように見えた」と語っていた. また,幼い頃,博士とともに暮していた西原澄子氏か らは部屋の様子だけでなく,博士が好んで食べていた物 や口癖といった家族のみが知る横顔を教えていただいた. さらに後日,記憶の中の部屋割りの図面まで書き送って いただき,展示に反映させることができた.いまはお二 人とも亡くなられたが,生前に牧野博士の書斎での様子 を直に聞くことができたことは有意義な経験となった. この書斎再現の製作は,展示工事を請け負った株式会 社丹青社の優秀な専門化集団に支えられて,完成した. 天井の中央部は長年の二階の重さに耐えかねている設 定で微妙に湾曲させている.畳は磨り減り,机の足の部 分が床にめり込んでいる.壁や家具などのくすんだ色を 出すには紅茶やコーヒーなどで汚した.積み上げられた 書物類は,書斎を写した小さなモノクロ写真をルーペで 観察して書名をリスト化し,購入可能なものを神田の古 書店で入手した.牧野文庫所蔵の博士の真鍮製の拡大鏡 や牧野博士考案の「牧野式胴乱」は,そっくりそのまま, 下町の鉄工所の熟練工によって再現された.この八畳の 書斎を作るのに,およそ 40 名以上の特殊造形スタッフ . が,関わっている (図 19) 48 やまとぐさ

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■浜田浩造,藤田浩徳による「書斎の牧野富太郎像」 当初「繇條書屋」展示は,書斎だけを再現する予定で あったが,植物園での実施設計の説明会の席で, 「どう せやるなら本人も作ったらどうだろう」という植物園の 職員の一声に皆が賛同し,すぐに五台山のふもとに住む 彫刻家,浜田浩造氏 (故人) を電話で呼び出し,その場 で製作を依頼することになった.学者を顕彰する記念館 で,本人の蝋人形 (実際はプラスチック樹脂製) が展示 されることは珍しいが,いかにもユーモア好きの牧野博 士が喜びそうな展示ともいえる. 浜田浩造氏は安芸市の岩崎弥太郎像や五台山頂の浜口 雄幸像など,土佐の偉人の銅像で知られる作家で,植物 (1982) に「牧野富太郎博士少年像」 園内にも昭和 57 年 を制作している.その後,打ち合わせの席で浜田氏が 語った言葉が印象的であった.曰く,自分が幼かった頃 の土佐の大人たちは,皆陽気で小さなことに惑わず,苦 労を笑い飛ばすような気風があったが,自分が大人に なってみたら,そういう土佐人が周りにいなくなってい た.記憶の中のそういう土佐の男のニュアンスをいつも 頭に描いて作品を作っているとのことであった.ちょう どこの頃浜田氏は高知市長浜の若宮八幡宮に建立する長 曽我部元親像の仕上げで多忙であったため,浜田氏の監 修のもと,弟子の藤田氏が製作に取り組むことになった .藤田氏も人があっと驚くようなリアルなもの (図 20) を作りたいと,熱心に取り組んでくれた. 最終的な仕上げの段階で,樹脂性の顔の表面に照明が 当たるといかにも作り物に見えはしないかと,顔に和紙 を薄く貼り付けた上に着色して仕上げたのだが,逆に光 を吸収しすぎて生命観を感じさせない印象になったため, 再度樹脂のままの仕上げに着色したところ,年老いても エネルギッシュな牧野博士の生き生きとした表情に近づ いたのは新たな発見だった. (2001) に惜しくも亡くなられ 浜田氏は,平成 13 年 た.この像は藤田氏との共作ではあったが,今は失われ つつある土佐人のいごっそうぶりを,牧野像のなかにも . 表現してくれたと思う (図 21) ■地域の伝統技術を生かした「土佐漆喰」の土壁 「牧野富太郎の生涯」展示室で貴重な資料を外光から 守るとともに展示室の重厚さを印象付ける土壁は,土佐 の伝統工法である土佐漆喰の職人で「現代の名工」に選 ばれ,その後「黄綬褒章」を受章した松本勉氏により, 作品といっても良いみごとな土壁を仕上げていただいた .漆喰はそれ自体が呼吸をしており,調湿効 (図 22,23) 果,吸音効果があり,まさに博物館の展示空間にふさわ しい仕上げ材ともいえる. 中庭側に近い背の高いほうの壁は,漆喰の中に土と藁 すさを混ぜた黄土仕上げという工法で,色を決めるに当 たっては,約 1 メートル四方の試験塗りを,淡い緑色と 赤土色との 2 点作ってもらい,内藤廣氏と現場で検証 し,来館者の目を引くとともに温もりを感じさせる赤土 色のほうを選んだ.ちょうど五台山の土の色に近く,土 が地面から盛り上がったかのような印象を与え,来館者 にとっては,展示の導入部に際して,これから特別なこ とが始まるという予感を無意識のうちに感じてもらえる 効果があるのではないかと思う. はんだ わら 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 49

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Ann. Makino Bot. Gard. アウテンボーガルト氏は,オランダのハーグに生まれ, 和紙に興味を持ち,シベリア鉄道で大陸を横断し,ナホ トカ経由で日本に渡り,北から南へ和紙の産地をめぐり, 西表島まで行ったところで土佐和紙の魅力に出会って高 知にたどり着いた.当初は伊野町で和紙つくりをしてい たが,この製作を依頼した当時は,高知県高岡郡梼原町 に移ったばかりの頃であった. 製作にあたっては,牧野博士の伝記を氏の奥様に英訳 していただき,まず博士の人物像を理解した上で,少 年期から晩年に至る 4 つの時代のイメージを作品化す るということに挑戦してもらった.企画から製作に約 2 年をかけて,それぞれの時代を象徴する植物を,鴻上技 監とともに野山で採集し,押し葉にして和紙に漉きこむ . などの工夫をして完成させた (図 25) ■ロギール ・ アウテンボーガルトの「手すき土佐和紙照明」 土佐の伝統技術で, 植物素材のものを牧野博士の展示室 に使いたいと考え, オランダ人の土佐和紙作家ロギール・ アウテンボーガルト氏に照明の製作を依頼した(図 24) . ■小原典子氏の「ケヤキのオリジナル家具」 「牧野富太郎の生涯」展示室と「植物画ギャラリー」 に配置し,見学者の疲れを癒す家具は,安芸市在住の家 具作家の小原氏に製作を依頼し,牧野博士ゆかりの樹木, ケヤキをメインに使って,すこやかな印象を与えるオリ . ジナル家具を作っていただいた (図 26) 50 やまとぐさ

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■ムットーニの「自動からくり人形」 「牧野富太郎の生涯」展示室は,牧野博士が残した貴 重な資料の展示により,博士の人物像と業績を伝える オーソドックスな展示になることが分かっていた.計画 の当初は,資料展示だけでは子どもや,植物に興味の少 ない人にアピールできないため,牧野博士の物語を,温 かみのある人形で「少年期」 「青年期」……と,それぞ れの時代に展開することを考えていた.人形作家は,明 治~昭和の子どもたちや,森の妖精などを表現した作品 で有名な与勇輝氏を想定していた. (1996) 3 月 11 日,展示基本設計の大詰め 平成 8 年 の時期に,展示アドバイザーの荒俣宏氏を仕事場に訪ね たとき,この人形の考え方について,意見をいただいた. 荒俣氏からは,独学で誰にもまねできない世界を構築 した牧野博士を表現するのなら,ただ博士の人生を追う のではなく,博士を独自の視点でとらえて,ひとつの作 品としても成立するような人形で描いてはどうかとのア ドバイスを受けた.そして,ムットーニこと武藤政彦氏 を紹介していただいた. 武藤氏はオートマタというヨーロッパの伝統的なから くり人形の影響を受けながら独自の自動人形のスタイル を発明した作家で,独特の世界観を持ち,見るものを作 品の世界に引きこむ.微妙な間を取り,かすかに動く メカニズムは,歯車一個から動きの制御,BGM の作曲, 照明計画など,すべてが氏の手作りで仕上げられている. 同年,小松主任が東京に出張した際に,牧野博士の弟 子で博士の葬儀委員長を務めた慶應義塾大学名誉教授の 遠藤善之氏 (故人) とともに,銀座で行われたムットーニ の作品パフォーマンスを見てもらい,制作依頼の判断を 仰いだ.その後,植物園の承認を得て,正式に牧野博士 の自動人形作品の制作を依頼することとなった. あたえゆう き それまで,武藤氏は創作のストーリーを作品化する作 家であったので,実在の学者をテーマに物語を作るとい うことは初めての挑戦であり,博士との距離のとり方に 非常に苦慮したとのことであった. 作品は,ある夜,植物学者が研究を続けているとき, 不思議なことが起こるというストーリーで,もうひとつ の牧野博士の一夜の夢がひそやかに繰り広げられる. 武藤氏には企画から完成まで約 2 年をかけて,みご . とな作品に仕上げていただいた (図 27) ■植物アクリル封入について 植物学者の研究の跡を伝えるためには,肝心の植物が なければならない.標本でなく,レプリカでなく,実物 の植物に近いものを見せたいと考え,牧野博士にちなん だ植物のアクリル封入を作ることを課題とした. この制作には,業界の草分けで博物館関係者の評価の 高い,東京都国分寺市の国陽工芸に依頼した.アクリル 封入はお土産品などでよく見られるものだが,その多く は乾き物をアクリルで包んだものである.花であっても セイヨウタンポポや園芸品種のバラなどで,どこででも 手に入れられる植物が多い.牧野富太郎記念館の展示で は,あくまでも高知の自生地で採集した牧野博士ゆかり の植物で作ろうと考えた.牧野博士の 4 つの時代にそ , れぞれ展示するのは,少年期はバイカオウレン (図 28) 青年期はヤマトグサ,壮年期はヤッコソウ,晩年はワカ キノサクラと決めて,それぞれ計画的に製作を進めた. アクリル封入の製作の決め手は植物体の新鮮さである. 採集した後に冷凍乾燥させ,型の箱の中にアクリルの土 台を作り,そこに植物をレイアウトし,各社独自の方法 でアクリル樹脂を流し込んでいく. (1997) 10 月に展示製作が始まったので, 平成 9 年 11 月~ 12 月に開花するヤッコソウと 1 月開花のバイカ (1999) 3月 オウレンと 3 月のワカキノサクラは平成 11 年 の工事引渡しまでに 2 度の製作チャンスがあるが,5 月 開花のヤマトグサは 1 回しかチャンスがない. 1 度目のヤッコソウの製作では,国陽工芸に東京から 朝一便で来てもらい,高知空港から稲垣技監の案内で室 戸の金剛頂寺へ直行し,境内裏の天然記念物指定地外で 採集した.採集植物はビニール袋に入れて息を吹きかけ て二酸化炭素を充満させる.原始的な方法だが,これが 植物を長持ちさせる秘訣である.そして即刻空港へ戻り, 東京行きに乗り込み,羽田からは東京都下の国分寺市ま 牧野富太郎記念館 常設展示製作プロジェクトの記録 51

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